2019年2月2日土曜日

福島県の焼き物4「長沼焼・勢至堂焼・福良焼」

福島県会津本郷町の「会津本郷焼」と、会津本郷焼の系統である会津若松市の「蚕養焼」についてはすでにご紹介しました。ここでは、同じ系統である須賀川市長沼の「長沼焼」、須賀川市勢至堂の「勢至堂焼」、郡山市湖南町福良の「福良焼」についてのご紹介です。
これらは個人的に好きな焼き物の最上位となっております。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。





長沼焼

福島県旧岩瀬郡長沼町、現在の須賀川市長沼に窯が築かれましたが、昭和8年(1933)頃には廃窯となっています。

江戸時代の正保4年(1647)には、美濃国から来た水野源左衛門が陶器を焼き始め、その後会津本郷に移ったとされていますが、詳しいことは分かっていません。これは「古長沼焼」としてここでの説明は省きます。
その古長沼焼の開窯から219年後の慶応2年(1866)に、庄屋の矢部富右衛門が独力で窯を築いて陶器を焼き、長沼焼が再興されます。矢部富右衛門は焼き物の技術を福良焼から習得したといわれています。
陶器を焼き始めたものの、すぐに操業資金が不足したので会津藩に助力を願い出ると、お金の代わりに米10俵を貰い受け、領地内の松の木を伐採して燃料とする許可が出ています。
しかし、時代は幕末です。やはり戊辰戦争で混乱し、窯は操業停止となりますが、明治3年(1870)には操業を再開し、磁器生産に着手しています。
長沼焼の磁器は明治時代以降ということです。
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿

 明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に長沼焼でも使われ、写真1-1の手描きの角皿のように絵付けは色鮮やかなヨーロッパの青色となりました。

写真1-2 高台内に「玩」銘
写真1-2 高台内に「玩」銘

この角皿は「福島のやきものと窯」の29頁に掲載されているものと内面外周の絵付が類似しているので、長沼焼であると考えています。裏面が掲載されていないので比較が出来ないのですが、こちらの角皿の高台内(写真1-2)には「玩」の文字が書かれています。この文字は、渡来系陶工の銘款を表しているとの記載がある書物があり、伊万里焼に書かれているようです。このことから、「玩」を書くのは伊万里焼の模倣であって、特に意味をなさないのではないかと思っています。
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます

あと、気になるところは歪みです。写真1-3のようにだいぶ器形が歪んでしまっています。磁土は、いわゆる腰が弱い土だったことを物語っています。
これを裏付けるように、長沼焼の磁土は大皿の製作に向かない腰が弱い土だったので、直径40cmほどの大皿までしか焼成出来なかったと考えられています。
また、高温では皿の高台が潰れてしまうので、高台を厚くして熱に耐えられるようにし、高台内を削っていました。高台内を削るのは、焼成時に皿の底部が下がるのを防止する「蛇の目高台」の作りが代表されるように、高台内を薄くするのが焼成で失敗しない方法で、これはほぼどこの窯でも取り入れていた技法でした。
ちなみに土は後述する勢至堂産とのことです。 

須賀川市立博物館
須賀川市立博物館

長沼焼の磁器を須賀川市立博物館の企画展示で見てきました(2017.11)。「青木忠吉コレクション」も展示されていて、写真2-1と同じ微塵唐草文小皿もありとても参考になりました。

写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

写真2-1・写真3-1の型紙摺り(印判)小皿の見込みは輪状に釉薬を剥いでいます。重ね焼きで器どうしがくっ付いてしまうのを防ぐためで、長沼焼ではこの技法が多くみられます。
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

このやり方は「釉剥ぎ」と言われていますので、その文字のとおり釉薬を剥いで無釉にするとしている説明をほとんどの方がしています。しかし、素焼きの型紙摺絵の場合は、絵付後に釉薬を施した後、釉薬がそんなに綺麗に輪状に剥げるのでしょうか?
もっとも簡単なのは、釉薬を施す前にロウなどの水分を弾く成分をロクロにより輪状に塗布すれば、釉薬が弾かれて(付かなくて)都合が良いと思います。これなら綺麗に輪状に塗れるので、釉薬が綺麗に輪状に塗られない部分が出来上がります。
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)

写真2-2・写真3-2のように型紙摺絵(の顔料)がべっとり高台に付くということは、やはり釉薬を剥いでいるのではなく、釉薬を付けないようにしていると思います。
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)

 さて、長沼にある須賀川市歴史民俗資料館のほうでは、型紙(磁器の文様付け・絵付の型紙摺り)の展示があるので行ってみましたが(2017.11)、「文化の日」なのにお休みでした。まさか休館日だとは、とても残念。土・日・祝日・年末年始(12月29日~1月3日)が休館日ということです。休館日を調べてから行けばよかった…。

須賀川市歴史民俗資料館
須賀川市歴史民俗資料館

 明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、長沼焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。
そして競争に負けてしまった長沼焼は徐々に衰退していきました。
昭和8年(1933)頃には廃窯となってしまい、約70年の歴史に幕を閉じます。




勢至堂焼

旧岩瀬郡長沼町勢至堂、現在の須賀川市長沼勢至堂に明治29年(1896)に、福良焼の陶工である二瓶豊作(初代)氏が移住して開窯しています。
長沼焼も後述する福良焼も勢至堂産の土を使っていましたが、後年になると良い土が採取出来なくなっていったとのことです。鉄分が多く入って斑点も現れ、白さが失われていったのでしょう。肥前地方と瀬戸地方を除いてほとんどの産地で、良質な磁土が近場で手に入らなくなって、磁器の品質が落ちて廃れていく一因となりました。
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)

写真3の型紙摺絵のなます皿(小皿)は胎土と釉薬からみて、終末期の勢至堂焼のものではないかと思っています。型紙摺絵の絵付柄が一般的なものとは違うのが産地同定のヒントになりそうです。
磁土は灰色が強く不純物が多く、釉薬は灰色が強いものです。今後検討していきます。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の 高台には型紙摺絵が付着しています。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の
高台には型紙摺絵が付着しています。

勢至堂焼の窯の終わりは長沼焼と同様で、昭和9年(1934)に廃窯となっています。




福良焼

旧安積郡福良村、現在の郡山市湖南町福良で文化元年(1804)に長谷川兵夫(兵部)氏が開窯(舘ノ下窯)し、天保10年(1839)から磁器を生産しています。
長谷川家二代目の清吾(酒造)氏は、会津本郷焼に弟子入りし磁器の生産技法を取得、絵付が素晴らしく名工と言われています。
染付の徳利の口作りは会津本郷焼に類似します。なお、明治時代の型紙摺絵のものも同様で、勢至堂焼も類似しています。

戊辰戦争の後、明治の初めには、県から生産年賦金(分割して毎年の支払い)を受けて16の民間の窯が復興しました。

その後、長沼焼、勢至堂焼と同様ですがこちらは早く、大正5年(1916)に、三代目の栄次氏が亡くなった後、廃窯となっています。

なお、上記の焼き物の系統を同じくする、現在の郡山市湖南町湖南の「湖南焼」については後日追記になります。



参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 福島県立博物館 1997『企画展 染める-会津型の技と文化-』,
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業

管理者 : Masa
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