2017年1月29日日曜日

ヤーコンの収穫

ヤーコン 

ヤーコンとは

キク科の多年草で南米アンデス山脈地方が原産です。日本での品種は数種ありますが、ここで栽培している品種は不明です。「イモ」の色は白~黄色で、収穫時には表面が裂けて割れ目が入ってしまいますので、日本での品種改良が進んでいない輸入当初からの品種と思われます。
茎はヒマワリの茎に似ていて、この畑では手間をかけないでも、だいたい1.2m前後の高さに成長します。花は咲いたことがないですね。これは、花が咲く前に降霜で茎葉が傷んで成長が終わって枯れてしまうからだと思われます。見たことがない花は、ヒマワリの花に似るとのことです。葉もなんとなくヒマワリに似ているかな?食べる部分はイモ=塊根(かいこん)で、サツマイモの白っぽい品種に一見似ています。それの間には、地下茎が肥大化して球状となった塊茎(かいけい)がいくつもあり、これが種イモとなります。白色と紫色が混ざった色で、ゴツゴツとしたコブが多く出ています。 
ヤーコンの地上部を切り取った状態
ヤーコンの地上部を切り取った状態 


ヤーコンの育て方(独自)

このヤーコンは、以前この畑を借りていた方が植えていた子孫です。塊茎が混ざっているのに気が付かず畑を耕し、雑草とは違う何か分からない芽が1、2本出てきたので、それを成長させたらヤーコンだったのです。
その年の秋は収穫せずにそのまま根の塊を掘り上げて、元肥無しで畝にしないで畑の隅に植えてみました。
それが次の年には大きく生育し、少量ですが収穫出来るようになりました。そして、その塊茎を個別にせずだいたいな感じで、またまた元肥無しで元の所に植え付けたのが、今回の収穫に至ったヤーコンです。ヤーコンは連作に向かないとありますので、別の場所に植え付けていたらもっと生育したのでしょう。

ヤーコンの収穫

通常は降霜する前に収穫するのでしょうが、こちらは枯れた地上部を切り取って今まで放置していました。イチゴの植え替えが終わったし、畑の収穫物が少ないので1株だけですけど、掘り上げに取り掛かったわけです。ここは、またまたハマスゲがはびこるエリアで、それをいちいち取り除くのでそちらで手間取ります。スギナも同様です。
ハマスゲとスギナの根
ハマスゲとスギナの根

ヤーコンはイモが横に生えている場合が多いので、エンピを入れて掘る場合は株からの距離をとって掘ります。植木屋さんの植木の移植みたいな掘り方です。
写真右側の突起物がヤーコン
写真右側の突起物がヤーコン

ヤーコン掘り上げ中
ヤーコン掘り上げ中
雑草も一緒に掘り起こせるので嬉しいですね。

ヤーコンの株下深くにエンピを入れます
ヤーコンの株下深くにエンピを入れます

イモは傷付きやすく折れやすいので要注意です。移植ごてをあてると皮が傷付きますし、サクッとイモに入ってしまいます。あせって掘り上げたので今回は何本かそんな状態です。
掘り上げ後
掘り上げ後

1株から収穫できたヤーコン。細すぎるのは除いてあります。
1株から収穫できたヤーコン。細すぎるのは除いてあります。

折れたヤーコン
折れたヤーコン

あと残りは2株あります。



ヤーコンの植え付け

こちらも通常は種イモを保管しておいて、春以降初夏までに植え付けるのでしょうが、例年前述のとおりなので植え付けてしまいます。
今回は植え付ける場所を横に移して元肥(鶏糞)を撒き、畝状にしました。そして、塊茎はあまり個別にせずに茎に付いた単位のまま密集して植え付けてみました。場所をとるのでまとめてしまった状況です。ちなみに土壌の酸性度が高くないので、ここ数年は苦土石灰を撒いていません。鶏糞の石灰分だけで十分なようです。
ヤーコンの種イモ
ヤーコンの種イモ

植え付け後
植え付け後

ヤーコンの食べ方

うちでは「きんぴら」にして食べます。フラクトオリゴ糖が多量に含まれていて、他にも良い成分が豊富に含まれているということですので、2株目以降の種イモはしっかりと植え付けて栽培してみますかね。






最後に。レモングラスのような草はいわゆる「カヤ」ということが判明しました。しかも食用で植えたとのお話です。除去にほんの少しだけ着手しています。
管理者 : Masa
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2017年1月27日金曜日

石川の焼き物2

九谷焼2 

再興九谷

加賀国(かがのくに)の九谷焼が途絶えてからおよそ100年後、文化4年(1807)金沢に京都の名工である青木木米(もくべい)が招かれ、春日山窯が開かれて九谷焼が再興されます。再興九谷の幕開けです。
ちなみに加賀国の加賀藩は明治2年(1869)の版籍奉還で金沢藩になりましたが、まもなく明治4年(1871)廃藩置県で金沢県になっています。また、支藩である大聖寺藩は大聖寺県になって、その後周辺地域との合併と分割によって石川県が誕生しています。

現代の庄三風七寸皿
現代の庄三風七寸皿(磁器)
現代の庄三風七寸皿の裏面
現代の庄三風七寸皿(磁器)


九谷庄三(くたにしょうざ)

文化13年(1816)、現在の能美(のみ)市寺井の農家に生まれ、のちに「庄三風」と呼ばれる、赤絵と金彩による精細に描写された作風を生み出しました。また、それは他の九谷焼の作風までも取り入れているものです。
現代の庄三風の銘
現代の庄三風の銘
現代の庄三風の絵付け。手書きと転写を併用しています。
現代の庄三風の絵付け。手書きと転写を併用しています。

現代の庄三風の絵付け。赤と金彩が綺麗です。

裏面にも色鮮やかな花模様。

吉田屋窯

文政7年(1824)豊田伝右衛門が、現在の加賀市山中温泉九谷町に築きました。焚口部分が消滅していますが、残存する長さは約14.3mで推定の全長は約16mです。なお、吉田屋窯跡は国指定史跡の九谷磁器窯跡となっていまして、同所に存在する1・2号窯跡は九谷焼の古窯で、17世紀代に築かれた連房式の登り窯です。
その後、現在の加賀市山代温泉に窯を移します。
作風は古九谷の青手の技法を取り入れ、器全面を厚く塗り込んで「吉田屋風」・「青九谷」と呼ばれています。
現代の吉田屋風の盃
現代の吉田屋風の盃(磁器)

現代の吉田屋風の盃。裏面には赤も使われています。
現代の吉田屋風の盃。裏面には赤も使われています。

宮本屋窯・(飯田屋窯)

天保2年(1831)に吉田屋窯が7年という短い期間で窯を閉じた後に、宮本屋宇右衛門へと窯が引き継がれました。絵付師である飯田屋八郎右衛門の赤絵の細描で「飯田屋風」・「赤九谷」と呼ばれています。



江戸時代から近代へ

当サイトでは、近代という時代区分について、明治元年(1868)以降から昭和20年(1945)前後としています。
宮本屋窯はその後、藩窯の九谷本窯となりますが、廃藩置県により藩の庇護を失うと、明治12年(1879)に九谷陶器会社が設立され民営に戻っていきました。

近代の絵付けの下絵について

下絵は、天具帖と呼ばれる美濃紙とドウサ(礬水)引きした薄美濃紙に描かれているものが多いとのことです。ドウサ引きとは、ニカワ(膠)とミョウバン(明礬)を混合した水溶液を紙に塗布して、滲み(しみ)止めに用いることです。
そして、以下は『九谷の紋様 日本文様図集』からの引用ですが、興味深いことが書かれています。

「下絵の図案からは、一般の人が抱く九谷焼のイメージに結びつくものが少なかったからであろう。事実、『九谷の紋様』に収録された図案を見れば理解されるように、古九谷は当然として、伊万里、色鍋島、柿右衛門、薩摩、赤絵、祥瑞、安南と、あらゆる種類のものがあり、本書にはあまり収録はされなかったが、仁清、乾山の図案集もかなりあった。なかでも、伊万里・色鍋島で全体の50%を占め、古九谷はわずかに10%程度である。」(中田善明1998, p.213)※原文は縦書きのため、当サイトで漢数字は算用数字に変えています。

大聖寺伊万里
骨董での伊万里焼と混同されることが多い大聖寺伊万里の所以があります。以下、引用です。

「明治の初期において、もっともよく売れ、しかも、大量に生産されたのが伊万里・色鍋島・柿右衛門風で、本場の伊万里よりも生産量を誇り、地元では大聖寺伊万里・九谷柿右衛門と称したほどである。明治のはじめ頃には、古九谷をつくっても売れることはなかった。古九谷が図案に描かれるようになったのは主に大正期に入ってからで、古九谷が重宝され、古九谷ブームを迎えるのは昭和とともにで、明治の時代は伊万里・色鍋島のものにだけ箱がつくられ、珍重された。」(中田善明1998, p.213)

このように、例えば代表的な色鍋島の七寸皿(18世紀前半)と同一の下絵が九谷焼に存在するということですので、これが下絵どおりに焼かれていたらどのようになっていたのか。もし現存するなら見てみたいものです。

前回の九谷焼のお話はこちらからどうぞ。

参考文献 : 佐々木秀憲 2000『産地別 すぐわかる やきもの の見分け方』,株式会社東京美術
     : 中田善明 1998『九谷の紋様 日本文様図集』京都書院アーツコレクション129,株式会社京都書院
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 真尾 栄 1996『九谷・越前やきもの紀行』,主婦と生活社
     : 矢部良明 1992『日本やきもの史入門』,株式会社新潮社
参考H.P. : 石川県九谷焼美術館
     : 公益財団法人石川県埋蔵文化財センター






管理者 : Masa
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2017年1月22日日曜日

イチゴの植え替え8

ついにおわり 

本日も青空だが東には雪雲発生中
本日も青空だが、遠くの東の空には雪雲発生中。

前回植え替えたイチゴ。畑の表面は乾燥中。
前回植え替えたイチゴ。畑の表面は乾燥中。

畑作業の前日は雪や雨の予報が出ていて、どうなるかなぁと推移を民間気象会社の実況で見ていました。実際には当地での降水はほんの短時間少しの雪で終わりました。当日は、降水の強弱の範囲がまばらに分布していて、午前中では西へ約30kmも行くと、家の屋根等に1cmくらいの積雪の報告もされていました。
当地ではそのような少ない降水量だったので、強い北風のせいもありますが畑の表面は乾燥中で作業がしやすかったですね。けど、前回植え替えたイチゴのためにはもっと水分が欲しかったかも。
近隣のイチゴの畝。
近隣のイチゴの畝。こちらは間引きがほとんどで植え替えが少ない。

植え替え最後の畝(1日目)

相変わらずハマスゲ・カタバミが多いのですが、スギナも他の畝と比べると結構ありました。スギナは引っこ抜くと「ブチッ」と切れてしまうため、出来るだけ根っこを掘り探して根の先端まで追いかけます。スギナは数センチでも根が残っていたらそこから芽が出てきて、再び繁茂するようになりますので注意が必要です。
現れたスギナ。もう芽が出ています。
現れたスギナ。もう芽が出ています。

掘り上げたスギナの根
掘り上げたスギナの根

エンピ(スコップ)を勢いよく縦に土に差し込んだら、「カチッ」と音がしました。陶磁器にあたった直撃音です。出てきたのは肥前系と思われる磁器の染付碗の破片でした。外面は草花文、内面には圏線が描かれていましたが、写真では白色が飛んでしまって文様が分からないですね。江戸時代のものだと考えられます。
磁器の染付碗の破片
磁器の染付碗の破片

北風が強く、日没後には足先が冷たくなってきたので本日の作業はここで終わり。


植え替え最後の畝(2日目)

残りは長さ2.5mほどの範囲だったので、ひたすら掘り起こしていきます。このエリアはイチゴの株が大株なので、エンピを数回差し込んで土と株をエンピの腹側で「ヨイショッ」と掘り起こす、いつもに増して力作業です。その土と株の塊を、植え替えに使えそうな株と使わない株、絡み合った雑草と分離していきます。この時に色々な小さな虫がボロボロと落ちていきます。葉の茂りが良かったので恰好の越冬場所だったのですね。
越冬中のテントウムシ
越冬中のテントウムシもいました。

そういえば今日は、作業開始早々にハクセキレイが「チチッ」と鳴いて舞い降りてきたのですが、こちらがちらっと見たら飛び去ってしましました。こんなに虫がたくさんいるのに。
掘り起こし作業終了!
ついに掘り起こし作業終了!

15時半には掘り起こし作業が終わったので、今回は耕耘機で耕しました。ホンダの30年物の耕耘機ですが、久しぶりの稼働にもかかわらず一発始動で相変わらず元気です。今度エンジンとミッションのオイル交換をします。エアフィルターも見てみましょう。
やはり耕耘機で耕すと土がフカフカで、畝作りの作業量が軽くなります。畝を作る列の下に元肥(鶏糞)を軽く撒いて、高畝にしたらいよいよ最後の植え付けです。
今回の畝は幅を広くとって2列植えられるようにしました。片側の列はいつものイチゴの株です。そういえば何てイチゴの種類だったか覚えていません。今度聞いてみます。近隣のエリアで増えたイチゴの株を移植してから4年、イチゴ畝の整理に手を付けるのを躊躇うほど増えていくイチゴ、その繁殖力はもの凄いです。
そしてもう一方の列は、近隣で増えつつある「四季成りイチゴ」を分けてもらったもの。この四季成りイチゴは手入れをほとんどしていないので、四季成りになっていません。花はピンク色が強いものです。このイチゴも繁殖力が強めです。今季から四季成りイチゴも加わりました。今思いましたが、名が分かっていないイチゴと交配していて、四季成りにならなくなったのかもしれません。
四季成りイチゴの株
四季成りイチゴの株

植え付けた四季成りイチゴの株
植え付けた四季成りイチゴの株


これでようやく肩の荷が下りて良かったのですが、なんだか気が抜けた感じにもなりました。けど、まだ冬にやることがたくさんあります。次回は、見た目がレモングラスっぽい植物の根の大規模掘り起しを予定しています。お隣の畑から地下茎で延びてきたものなのですが何だか分かりません。わざわざ植えつけたということなのですが。香りがいまいちなのでレモングラスではないかなと思っています。今度会ったら聞いてみましょう。
植え替え終了です
植え替え終了です。大寒ちょっと過ぎの真冬に終わりました。

ビニールハウスのイチゴは今が盛りですが、こちらはまだまだ。
日没直後の谷津の林
日没直後の谷津の林







帰宅は暗くなってからです。
前回のイチゴの植え替えの様子はこちらからどうぞ。

管理者 : Masa
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2017年1月17日火曜日

石川の焼き物

九谷焼1 

九谷焼の始まり

金沢城
金沢城訪問時の遠景
加賀藩の支藩の大聖寺藩、加賀国江沼郡九谷村、現在の石川県加賀市山中温泉九谷町に明暦元年(1655)に初代藩主前田利治が開いた藩窯です。なお、1655年は4月13日に明暦へと改元されていまして、1654年は承応3年です。
大正~昭和時代の九谷焼のぐい呑みです
大正~昭和時代の九谷焼のぐい呑みです
窯業は肥前(佐賀藩)の技術を導入し、磁器製品が作られました。


古九谷(こくたに)と古九谷論争

九谷焼が焼かれ始めてからおよそ50年後に窯業は終わってしまいます。しかし、そのおよそ100年後には窯業が再興していますので、再興後の製品と区別するために九谷焼初期の製品のことを古い九谷焼、古九谷(こくたに)と呼んでいます。
そして古九谷論争ですが、古九谷と呼ばれている製品のうち、そのほとんどが肥前産の初期の色絵製品ではないかとの説です。また、肥前から磁器の素地と絵付けの技術を導入して、大聖寺藩で色絵の絵付けを行ったという説もあります。
なお、東京大学本郷構内の遺跡発掘調査で出土した、いわゆる古九谷様式の色絵磁器の化学分析を行ったところ、肥前産であることが判明しています。しかし、あるものは九谷古窯の素地と共通することが判明しています。また、肥前の窯跡からは、古九谷と同様の製品の破片が出土したことが知られました。
この問題はかなり難しいところがあるので、ここでは少しの事実を挙げておきます。以下、埋蔵文化財の発掘調査報告書からの引用です。

「このように大聖寺藩邸の約8割を調査したにもかかわらず、九谷産磁器はわずか5点しか検出されなかった。もちろん加賀藩邸、富山藩邸の大聖寺藩邸以外では再興九谷を除き、全く出土していない。他の江戸遺跡ではもってのほかである。山中の九谷古窯跡の規模からも大量生産は望めず、国元を中心にごく限られた分布圏を有していたにすぎないことが理解される。」(東京大学埋蔵文化財調査室2005, pp.490-491)

金沢城
金沢城

古九谷の青手と五彩手(九谷五彩)

青手、五彩手(九谷五彩)とは、色絵の作風の違いで呼び名を変えているのです。青手は器全体に緑色・黄色・紫色と紺青色で塗り描き、素地が見られない色絵の描き方をしています。五彩手は青手で使われている4色に赤色を加えて5色になるので五彩です。こちらは器面内面の中央部に写実的なモチーフを描いています。
金沢市内
金沢市内

焼成はとういと、素焼きを行わないで本焼きをしていました。結構ざっくり感がありますね。
石川県立伝統産業工芸館
石川県立伝統産業工芸館では伝統工芸品の見学をしました


次回は再興九谷についてです。こちらからどうぞ。

参考文献 : 佐々木秀憲 2000『産地別 すぐわかる やきもの の見分け方』,株式会社東京美術
     : 東京大学埋蔵文化財調査室 2005『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院外来診療棟地点』東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 5
     : 中田善明 1998『九谷の紋様 日本文様図集』京都書院アーツコレクション129,株式会社京都書院
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 真尾 栄 1996『九谷・越前やきもの紀行』,主婦と生活社
     : 矢部良明 1992『日本やきもの史入門』,株式会社新潮社
参考H.P. : 石川県九谷焼美術館
     : 公益財団法人石川県埋蔵文化財センター






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2017年1月15日日曜日

イチゴの植え替え7

最後のエリアのまだ続き

谷津の林と南の空
谷津の林と南の空

今季最大級の寒波到来中

ハマスゲだらけのエリアの植え替えを継続中です。本日は寒気の南下が大きく日本列島をすっぽりと覆うような状況で、とても冷たい乾いた北風がビュービューと吹いています。風が吹いていても前日からの降霜が激しいはずなので、作業は午後から行いました。他の畑を見ると、日陰の時間が長かった場所はまだ白く霜が溶けきっていません。自分の所は夕方前までは陽当たりが良いので霜はありませんでした。しかし、溶けた霜の水分で通路がドロドロの土となっていて、一輪車を動かすとタイヤに土がこびり付き、それが落ちないでタイヤに積み重なっていき、これまた動かし難いのなんのって。しかも自分自身が滑らないように注意をしながらの行き来です。
そして、畑作業開始早々北風にのって、数分ではありますが風花が舞い、昨年11月と合わせて2回目の降雪となりました。
北の空の雪雲
北の空の雪雲

霜に勝っている植え替えたイチゴ
霜に勝っている植え替えたイチゴ


ハクセキレイ(鳥)現る

土を掘り返していると、「チチッ」という鳴き声を出しながら飛来してきた鳥がありました。小さめのハクセキレイです。尾っぽをピンピンと上下に動かしながら、土を掘り返した所で昆虫を探して歩き回っています。見ていると何かを捕食している様子があるので、ダンゴムシか何か小さな昆虫を食べているのでしょう。
スマートフォンで写真を撮ろうと構えると飛んで離れてしまいます。注視されるのは怖いでしょうが、スマートフォン越しでもハクセキレイ自身がターゲットとして狙われている事を感じ取るのでしょう。
けど、少しすると舞い戻ってきて、何事もなかったようにエサを探して歩いています。最接近はこちらとの距離1mほどまで来ますが、大振りな動作をするとすぐに逃げてしまいます。
スマホの望遠機能で撮影したハクセキレイ
スマホの望遠機能で撮影したハクセキレイ

夕方前、隣の畑にもう一羽ハクセキレイが飛来し、こちらにいるハクセキレイが「チチッ」と鳴いたら、向こうも「チチッ」鳴き声で短く挨拶らしきものをしました。捕食中の縄張りでもあるのでしょうか?この隣の畑のハクセキレイは、さっと物色したのちに飛び去ってしまいました。



イチゴの植え替えの様子

さて、ここの畝のイチゴはというと、昨年の夏以降の雑草繁茂の影響で親株以外の生育が良くなく、子株としての移植用にはほとんど適していませんでした。なので、今回の植え替えたもののほとんどは、親株から折り取ったものになりました。株元は太く、根が張るものです。寿命としてはどうなのでしょうか?ちょっと実験です。
本日のイチゴの植え替え作業終了
本日のイチゴの植え替え作業終了

林に太陽が隠れると、ハクセキレイは鳴き声とともに飛び去って行きました。日没になりようやく植え替えが終わりました。手はかじかみ足先は冷たさで痛くなっています。あと残りは1畝。いよいよ終わりが見えました。  
saikurokku issan タイ東北部ソーセージ焼き
「saikurokku issan」 タイ東北部ソーセージ焼き
今夜は寒い中作業をしたご褒美に、本場料理人によるタイ&インド料理で乾杯です。







次回のイチゴの植え替えはこちらから。
前回のイチゴの植え替えはこちらからどうぞ。

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2017年1月7日土曜日

イチゴの植え替え6

最後のエリアの続き

イチゴエリア
今回はこのイチゴエリア

ハマスゲについて

ハマスゲだらけのエリアに突入してしまいました。冬は地上部が枯れているのでその存在があまり分かりません。数年前の植え替え時にハマスゲの除去が甘かったせいでしょう。
ハマスゲは地下部の根茎(ゆがんだラグビーボール状)があるため、普通の雑草抜きと同様に除去出来ず、掘らなくてはなりません。そうすると野菜の根を痛めてしまうので、仕方なく地上部の葉だけ引っ張って取ることになります。見た目は除草出来ていますが、最盛期には数日で再び地下部の根茎から芽が出てきます。だから植え替え時は除去する絶好の機会なのです。
11月のハマスゲ。まだ葉があります。
11月撮影のハマスゲ。まだ葉があります。 

葉が枯れたハマスゲ
今回のハマスゲ。葉が枯れています。

ハマスゲの根は根茎付近では短く細かいのですが、根茎と根茎を繋ぐ根は長くピンッとしているので、土から目立って出ているので比較的見つけ易いです。掘った後に埋める時は、土を少しずつ足で均しながらやると、取り損ねたハマスゲの根がピンッと出ているのが見えるのでそこで拾い上げます。これがある度に「あぁ、取り漏れが一つ減って良かったぁ。」と思います。
ハマスゲはカヤツリグサ科ということで、やはりカヤツリグサに似ています。地味な花が咲きますが、花というより葉と茎とは違う何かという感じです。このモジャモジャブツブツっとした黄土色の粒の細長い集まりの花が咲くことも似ています。畑にカヤツリグサがたまに生えていますが、除草の時には土に浅く張った根が気持ちよく抜けます。これが大きな違いですね。


ハマスゲは漢方薬

ところで、ハマスゲは漢方薬になります。生薬名は香附子(こうぶし)で、東アジアと東南アジアの数か国から輸入されているとのことです。なお、香附子単体では用いないで漢方処方に加えて用いるとのことです。以下引用ですが、括弧書きの平仮名は原文では括弧無しでルビです。

浜の菅(すげ)という意のように、海浜砂地や河川敷などに群生している。「和漢三才図会」(1713)に「古くは全草を莎草(さそう)と呼んで薬用に供したが、今はその根を単に香附子(こうぶし)と名付けて、これを用いるようになったので、以前莎草と呼んでいたころのことを知らない人がいる」と寺島良安が述べている。「本草綱目」(1590)では莎草香附子となって、その説明には寺島良安がそのまま引用したのだろうと思われる原文がある。(株式会社主婦の友社 1978, p.77)

※寺島良安は江戸時代中期の医者です。
さて、イチゴに戻って。ここの畝は植え替えてから年月が経っているため、古株から分かれていった株が多く付いていて大株に育っていました。大株自体は古いものが主体なので植え替えには使用しませんでしたが、実験的に古株から分かれた株を切り離したものをいくつか植えてみました。また、ランナーから延びた子株は雑草が多かった影響で、子株の根の張りが少なくて植え替えに向くものが少なかったです。
イチゴの古株
長さ約1m、幅約30cmの畝を整理するとこれだけ古株が出ます。

もう花が咲いて実がなり始めているものがありました。
露地栽培では早すぎで特異です。
在地では通常4月下旬から5月ですので。

瀬戸・美濃焼と考えられる陶器の手塩皿
今日は瀬戸・美濃焼と考えられる陶器の手塩皿(小皿)の破片が出てきました。
鉄釉が掛かっていました。江戸時代のものでしょうか。






そんな感じでしたので、半畝分だけの整理で日没を迎えてしまいました。気温は3度くらいでしょうか。もう日没前から足先が冷たくって。明日は雨かミゾレ・雪予報なので畑作業は中止です。

イチゴの植え替えの続きはこちらから。
前回のイチゴの植え替えはこちらからどうぞ。

引用文献 : 1978 株式会社主婦の友社『薬草カラー図鑑』わたしの健康別冊
管理者 : Masa
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