2016年10月31日月曜日

外出先でのPCアクセスは NEC LAVIE Tab

タブレット型PC

LAVIE Tab W

このブログ「日本製陶磁器のご紹介」の記事入力等を外出先で行う時に、タブレット型PCを使用しています。メーカーはNEC(日本電気株式会社)で、機種はWindowsタブレット「LAVIE Tab W PC-TW708BAS」で2015年5月14日の発売です。
去年の秋に購入した時には、インストールOSはWindows8.1 Updateでしたが、早々にWindows10にアップグレードさせました。アップグレードは問題なくすんなりと終了しています。
Windows8.1を使用して日が浅かったので、Windows10との違いはほとんど分からなく、気になったのは、デフォルトのブラウザーがMicrosoft Edgeになったのとコルタナ(仮想執事状のアプリ)が出てきたことぐらいでしょうか。
LAVIE Tab PC-TW708BAS
LAVIE Tab PC-TW708BAS

LAVIE Tab W PC-TW708BASの仕様
CPUは AtomのプロセッサーZ3736Fで、動作周波数1.33GHz(最大2.16GHz)
コア数・スレッド数は4コア・4スレッド
キャッシュメモリは2MB(2次キャッシュ)
メインメモリは2GB
で、文章作成やメールの送受信、Webブラウジングをたまにする等の現在の使用状況では何も問題ございません。
内蔵ディスプレイは8型ワイドのスーパーシャインビューLED液晶(広視野角・高色純度・高輝度・タッチパネル)(WUXGA)ですが、液晶保護のために市販の乱反射防止のフィルムを貼ったため、輝度が抑えられています。
ドライブ内蔵フラッシュメモリは約64GBで、Windowsシステムから認識される容量は約48GB、空き容量が約42GBです。画像など大きいファイルを保存しておかないので、これも容量的にじゅうぶんです。
通信機能はワイヤレスLANの11nテクノロジー対応で、ワイヤレスLAN本体内蔵(IEEE802.11b/g/n準拠、WiFi Direct準拠)ですが、Windows10にアップグレードした場合には、NECから以下の更新ソフトをインストールするよう促されます。
【Windows10アップグレード用】Wireless LANアップデータ(2014年12月製品LaVie Tab W、2015年5月製品LAVIE Tab W)
無線LANの不具合には遭遇していなかったのですが、更新しておきました。
LAVIE Tab PC-TW708BASの裏
LAVIE Tab PC-TW708BASの裏

バッテリーリフレッシュ
アプリの「バッテリ・リフレッシュ&診断ツール」を利用します。それによって、バッテリーの劣化・進行の抑制と長期間安定使用の調整をすることができます。
3ヵ月に1回の定期実施が目安ですが、先日初めてやってみました。実施するのが遅くなった理由は、バッテリ・リフレッシュ&診断に時間がかかるからでした。
バッテリ・リフレッシュ&診断時間は、約17時間、最大約21時間かかるとのことでしたので。
実際にかかった時間は、19時前に開始して翌日12時前に完了しましたので、約17時間です。
実行中はACアダプターの接続を外しては駄目で、液晶ディスプレイはオンの状態を維持しなくてはなりませんので、外出しない長時間の時間帯があるときにしか出来ませんのでご注意を。
内臓バッテリーはリチウムイオンなので、メーカー推奨の「80%充電で長持ち」を心がけています。充電設定で選択項目がありましたので、そうしてあります。ちなみにニッケル水素バッテリは出来るだけ使いきりましょうとのことです。
閑話休題
次回は伊万里のなかで「志田窯」についてです。



2017.3.1追記。

LAVIE Tab W PC-TW708BASに起動不具合発生

バッテリーの残量チェックをしようと、5日ぶりにLAVIE Tab Wをバッグから取り出して電源を押しました。
??
通常は電源ボタンをポチッと軽く押すと「NEC」の白いロゴが出てきてパスワードの入力になるのですが、何も反応がありません。起動してくれません。 
起動しない場合は、システムが正常だと仮定すると、何かしらの原因でバッテリー残量が0%になっていると考えられるので、まずは充電してみました。
充電中を表す赤い小さな明かりが点灯したので、数分様子をみてみます。正常ならこれで起動するはずですので電源ボタンを押してみました。

起動しません。
「??」

初めての症状です。
他のタイプのパソコンと同様に電源ボタンを長押しすれば、強制シャットダウンになるなど何か変化があるはずなので、10秒ほど長押ししてみました(正確に秒数を計っていません)。そして、再度電源ボタンを通常どおりに押してみます。
変化がありません。「??」、この時点で少々焦ってきています。落ち着いて、今度は長押しを10秒以上やってみました。そして少し間をおいて、電源ボタンを押すと「NEC」のロゴが出てきて一安心です。パスワードを入力してスタート画面のバッテリーをみると、やはり残量が無い状態でした。このまま充電をして、ついでにセキュリティソフトの更新を行おうとアプリを開いてみると、なんと保護の更新は最新で、おまけにセキュリティスキャンまでやってあります。この短時間にそれらが済むわけはないので、ここで、この端末が勝手に起動しているのかもと考え始めました。しかし、パスワードの入力無しでどうやって?と。
(2017.3.24追記。セキュリティソフトの更新は素早いことが判明しましたので、ログオンのすぐ後に行われていたようです。)

LAVIE Tab W PC-TW708BASの正常な起動への試み

電源関係やOSのアップデートを見直しましたが問題ありません。単なる誤作動かと自己解決して、約4時間の充電を終えてバッグにしまいました。
そして次の日、起動させてみましたが起動しません。前日と同様に電源ボタン長押し後に再度押しても、なかなか起動しません。しかし、同じ動作の繰り返しでやっと起動しました。やはりバッテリー残量が無くなっていました。
次の日も同様です。毎日こんなことをやっていて、修理に出さなくてはならないのかなと思い始めて、その前にシステムの復元をやってみることにしました。
ちなみに、以前ウィンドウズのアップデートをしてから、起動画面が初期設定の状態時のものになって、パスワードがなかなか入力できないトラブルが起こっています。これは、2、3回のシャットダウンからの起動で正常な状態に戻りました。
今回も最後に正常な起動をしたのは、ウィンドウズのアップデート前だったので、ちょっと気にかかります。

なんとか起動させて、
設定(歯車マーク)
システム
バージョン情報
システム情報→「コントロールパネルホーム」になる↓
システムの保護→「新しいウィンドウが現れる」↓
「構成」ボタンをクリックして、
「システムの保護を有効にする」を選択してみました。
ついでに「ディスク領域の使用量」の最大使用量が0%だったので、ついでにバーをちょっと右に動かして数パーセントにしておきました。
「システムの保護を有効にする」を選択したということは、そうです、無効になっていたのです。よってシステムの復元ポイントも設定されていませんでした。迂闊でした。初期設定で有効になっているものだと、特に気にしていませんでした。
あとは、関係無いかもしれないですが、「リモートアシスタンス接続」を無効にしておきました。



LAVIE Tab W PC-TW708BASが正常起動。復活!

これで充電完了後に電源ボタンを通常どおり押してみました。すると、パッと「NEC」のロゴが出て正常な起動になりました。念のため、シャットダウンをして再び電源オンでも正常に起動します。
一日後にバッテリー残量を見ましたら、ほとんど減っていません。こちらも正常です。 
原因はなんだったのでしょうか?
今回はこれで正常になりましたが、たまたま直ったとも考えらえます。この記事はあくまで参考にしていただき、メーカーや修理屋さんに、正常な状態に戻すのを依頼することをお勧めします。


2017.3.9追記。
現在、すべてにおいて正常な状態を維持しています。

2017.3.20追記。
先日ウィンドウズ10のセキュリティ関係のアップデートがありました。アップデートがすんなりと終了して再起動後シャットダウン、そして起動したらまた起動が出来なくなっていました。
アップデートのせいなんでしょうかね?
電源ボタンをかなり長押ししてから離して短く押すと、電源が入りました。前回の不具合が起きた時と同じ症状です。
もう一度やっても同じ症状が起きてしまいます。
設定(歯車マーク)から再起動ボタンを探して再起動してみました。そうすると、次の起動はすんなりといき、その次もすんなりといきました。なんなんでしょうかね?
次のアップデートの機会でどうなるか、またレポートします。

2017.6.16追記。
昨日、ウィンドウズ10のセキュリティ関係のアップデートがありましたので実行しました。
なかなかすんなりとアップデートが成功しなかったのですが、1時間ほどで全て成功となりました。
バッテーリーをフル充電して、電源をオフにしてカバンにしまって帰宅。
朝、カバンを触るとなんだか温かいのです。あー、また勝手に電源が入ってしまったようで、バッテリーが空の状態らしく電源がオンになりませんでした。
充電し始めてすぐに電源ボタンを押すと、NECのロゴが現れて通常起動となりました。
どうもウィンドウズ10のアップデートと相性が悪いみたいです。
アップデート後は要注意ですね。







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2016年10月27日木曜日

柿右衛門

柿右衛門・柿右衛門様式

江戸時代の時期区分

まずは江戸時代における時期の分け方について。
ここではざっくりと、江戸幕府開府の1603年から大政奉還された翌年の1868年(慶應4年・明治元年)を三期に分け、266年間を単純に3で割った約88年間を時期分けの目安としています。したがって、1603年~1691年前後を前期、1691年前後~1779年前後を中期、それ以降幕末までを後期としました。
ほかに、江戸時代初期は文字どおり初めの時期、江戸時代末期は幕末(幕府末期)あたりの時期です。
分け方については色々あります。例えば磁器であったら様式の変化や時代背景等で。他には文化・政治状況等から時期分けをしたりしますが、ここではあくまで経年で分けていますので目安としてください。

本題の柿右衛門

なぜ「柿右衛門」が別各扱いになって存続し得たのか。
ずばり、初代柿右衛門の技巧が特別素晴らしく、代々良工が継続したからでしょう。
逆境にも強く耐え抜き、守り続けた技ですね。

柿右衛門の柿の木
柿右衛門窯訪問時の柿の木

柿右衛門と柿右衛門様式

「柿右衛門様式」は骨董界でよく耳にしますが、柿右衛門様式は柿右衛門の作品ということではないのです。これは様式であって、万治2年(1659)にネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の連合東インド会社(オランダ東インド会社)から注文を受けた高級磁器の生産によって確立した輸出向けの様式なのです。
ちなみに、鎖国を行っていた日本において、長崎の出島での交易を欧米諸国で唯一認められていたのが、ネーデルラント連邦共和国です。
おおよそ同じ時期に、この輸出生産の影響を受けて日本国内向けに生産されたのが、いわゆる「古九谷様式」です。古九谷様式は論争・推論多々ありでして、お話は別の機会に。だけど少しだけ。問題となっているのは、古九谷様式の産地は九谷ではなく伊万里だとの説。衆議院質問主意書で提出されてもいます。


江戸前期~中期の柿右衛門

生産当初の1650年代の製品は、明朝(現、中国)後期の景徳鎮彩絵磁器を模した模様構成で中国様式となっています。
1660年代には景徳鎮磁器の模倣から離れて、日本画的な柿右衛門様式が確立されます。そして、明朝(中国)磁器の景徳鎮に代わって、格調の高い品位のある優品が生産され、ヨーロッパ・東南アジア向けの輸出が盛期となりました。
1670年代には胎土・磁器肌が安定し、また、色絵付の技法も向上して器種が多様となっています。
器種は型打成形の人物の置物や調度品もあり、古伊万里様式とは違う器種構成があります。
元禄(1688~1704)年間では、伊万里の金色・赤色を多用した派手な金襴手様式がこの時期の主流となり、柿右衛門様式が衰退してしまっているようです。金襴手はほんときらびやかですよね。
需要の増加で、明和(1764~1771)年間には、ほとんど型打ち成形になっています。
18世紀以降、連合東インド会社との交易は、明朝景徳鎮磁器の輸出再開で低調となっていき、さらに幕府の海舶互市新例(貿易制限令)による輸出規制で打撃を受けています。
いつか、海舶互市新例での影響を詳しく調べたいと思います。


江戸後期以降

海舶互市(貿易制限令)によって輸出が振るわなくなり、柿右衛門様式の生産は日本国内向けにシフトし、生活調度品・日用食器が多く生産されました。
窯業にとどまらず、輸出をあきらめなければならない関係者にとっては新たな活路の開拓に必死だったことでしょう。新製品の製作に邁進し、そして、伊万里様式と柿右衛門様式を複合した模様の製品が多く生産されています。
しかしその結果、手工業の大量生産で起こりがちな、粒子の粗い器面や顔料の質の低下があったりしました。また、成型技術の雑さもみられ、器は厚くなってぼってりとしたものも生産されてしまいます。
柿右衛門も時勢には逆らえず、柿右衛門の特徴である濁手の製作は中断されてしまったとのことです。

鮮やかな色絵と濁手
さて、ここで柿右衛門の色絵はなぜ鮮やかなのか。
色絵は釉薬(うわぐすり・ゆうやく)を器面に塗布して、その上に絵付を行います。柿右衛門は「濁手(にごしで)」という乳白色の素地を創り出し、絵付けの発色を鮮やかなものにしました。

14代柿右衛門飾皿
柿右衛門窯で購入した14代の飾皿

濁手素地の復活
海舶互市新例(貿易制限令)以降、途絶えていた濁手素地の技法を復活させるために、十二代柿右衛門(1878~1963)は十三代(1906~1982)と共に、柿右衛門家古文書によってその技法を試みました。
昭和28年(1953)に濁手の復活に成功しています。今から63年前のことなのですね。
この伝統の継続が日本の宝なのです。伝統を守り抜いていく精神。

参考文献 : 朝日新聞西部本社 1976 『柿右衛門 -日本磁器赤絵の精華 古窯発掘記念-』, 朝日新聞西部本社企画部
               : 福田英雄ほか 1976 『伊万里・九谷 1976 冬』, 株式会社平凡社
     : 矢部良明 1992 『日本やきもの史入門』, 株式会社新潮社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社






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2016年10月24日月曜日

鍋島焼

高級磁器鍋島焼

靄がかかる大川内山
靄がかかる大川内山
現在でも鍋島焼は高級品のイメージです(個人的見解)。

藩窯(御用窯)

鍋島焼は現在の佐賀県伊万里市、江戸時代の肥前国佐賀藩(別名肥前藩及び藩主の名から鍋島藩)で焼かれている磁器です。
鍋島藩の俗称のほうが通じやすいですかね。
藩窯(御用窯)は江戸時代の藩直営の窯で、将軍家への献上品や諸大名・公家への贈答品として高級な磁器が生産されていました。外様大名のメンツもあったのでしょう。 
「鍋島は支配者のやきもの」とまで言われることがあります。 
藩窯は、寛永5年(1628)に佐賀県有田町岩谷川内に初代藩主が陶器方役を派遣した時から開始されたと伝えられています。
寛文元年(1661)に有田町南川原山に窯を移し、延宝3年(1675)には佐賀県伊万里市大川内山に移し、現在に至っています。
この鍋島焼の歴史(時期)については少ないながらも諸説あります。藩窯であるのに、いまひとつ判然としていないようです。文献が追加発見されて、窯跡の発掘調査結果と合致すると良いですね。
最盛期は元禄年間(1668~1704)で、やはり元禄です。

色鍋島

色絵付の藩窯磁器を色鍋島と称しています。
他に染付・青磁等もありますが、やはり鍋島焼といえば、藍色(染付)・赤色・緑色・黄色の4色での色絵付けのデザインが大胆な色鍋島ですかね。
金彩がほとんど用いられていないのも特徴です。
皿の内面に描かれた色絵も良いのですが、高台に巡らされた櫛歯状の染付(櫛高台)が印象深いです。贋作はこれを真似ようとしますが、結果は何か不自然な仕上がりです。


現在の鍋島焼

明治時代になり、武家政権が終わって藩窯は終わりを迎えましたが、明治10年(1877)精巧社を設立し復興を図ります。
明治・大正時代の鍋島焼はどうだったのでしょうか?こちらは後日に。
現在、「秘窯の里 大川内山」では、伊万里鍋島焼協同組合の組合員24窯元が紹介されています。

今泉今右衛門

「酒井田柿右衛門」と並んで広く知れ渡る「今泉今右衛門」。
平成26年(2014)には、十四代今泉今右衛門氏が重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定されています。
江戸時代の話しに戻りますが、今泉今右衛門家は藩の保護のもと、御用赤絵師として色絵付を行いました。
赤絵窯(色絵付用の窯)を焚き続け、赤絵の技法は家督相続法で一子相伝として保護されていたのです。 
今右衛門窯は有田町赤絵町にあります。有田を訪れた際に柿右衛門窯へは行ったのですが、時間不足で今右衛門窯には行かれず残念な思い出があります。
今度は訪れたいですね。

次は「柿右衛門」です。こちらからどうぞ。







参考文献 : 朝日新聞西部本社 1975 『色鍋島 – 日本磁器の精華 肥前鍋島藩御用窯の名器 -』 ,朝日新聞西部本社企画部
     : 矢部良明 1992 『日本やきもの史入門』, 株式会社新潮社
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2016年10月22日土曜日

明治時代以降の波佐見焼

はさみやき

佐賀・長崎
波佐見町に行く途中
そういえば、波佐見焼は「はさみやき」です。
波佐見町は「はさみちょう」です。「まち」と「ちょう」どちらかであるかは、地名とセットで覚えるしかないですね。


明治維新

武家政権が終わって、新たな時代の幕開けで日本の焼き物業界もだいぶ混乱したことでしょう。なにせ既存の価値観が破壊され、新しい技術・風俗が解禁になったのですから。
焼き物業界でも、混乱のこの機会を良い方向にもっていくことが出来た人達がいたはずです。
波佐見焼はどうだったのでしょうか? 


再興

幕藩体制の崩壊によって、明治3年(1870)には大村藩皿山役所が閉鎖され、藩の支援がなくなり、小規模な窯での生産になってしまいました。
せっかく新しい時代を迎えたのに、巨大な登窯での生産が停止になったのは経済的、精神的にも大打撃です。
しばらくは、個人や集落単位の小さな地域で生産するしかなかったのでしょうが、ここで、磁器生産に新しい技術が導入されます。


新技術

まずは現在でも人気が高い、いわゆる「明治以降印判手」である型紙刷りです。
明治8年(1875)頃にその技術が導入されています。型紙刷りの技法については後日詳しく述べますのでここでは簡単に。
型紙刷りは器への絵付を手描きではなく、模様を切り抜いた型紙を器面にあてて、型紙の上からコバルト青(ベロ藍)等の顔料・絵具を刷り、型紙を外すと模様が残る技法です。
細密な模様なのに大量生産が可能になったわけです。ただし、型紙の接合部や貼り方によっては模様がずれていたり、かすれていたりで、高級料理屋等には不向きだったと思います。
明治24年(1891)頃には銅版転写(エッチング)の技法が導入されています。これは銅版画を応用した技法ですね。銅版転写の模様は型紙刷りの模様よりも近代的な模様が多いです。この技法についても詳しくは後日ということで。


輸出と振興

さらに、明治20年(1887)頃からは、朝鮮半島への輸出用の壷が作られ始めたようです。
近代産業の発展に欠かせない輸出です。他の器種も一緒に渡って行ったのでしょう。 
この時代に最も盛んに生産されていたのは徳利です。明治の中頃には徳利の生産が最盛期となり、全国中に出荷されています。
徳利生産に特化しようと考えたのか、需要からの生産増か。需要増加からだとしたら、お酒と醤油等を買うための通い徳利として、磁器製徳利が流行ったのかな。 
そして、明治35年(1902)に陶磁器意匠伝習所の設立、明治38年(1905)には上波佐見村陶磁器信用組合が結成されました。
数々の努力により明治時代後期には各振興をはかり、江戸時代の活気を取り戻しています。




大正時代

窯業も会社組織の道へ進みます。
四年間続いた第一次世界大戦が終わった年の大正7年(1918)に「長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社」が設立されました。東彼杵郡の読み方は「ひがしそのぎぐん」です。
この頃の日本は、戦時特需による成金からインフレ、戦後恐慌と、経済活動は特に良い時から特に悪い方向へ向かっていきます。 
そんな世の中で、大正時代末期には生産技法の進化、特に機械ロクロの導入によって、波佐見焼は多種多様な量産品を生み出しています。
さらに、大正14年(1925)には登窯に代わって石炭窯が使用され、生産の主力となっていきました。九州北部には炭鉱・炭田が多く存在していましたから、石炭の輸送料からみても石炭窯の普及は早かったと考えられます。

昭和時代(戦前)

昭和初期の大不況を乗りきり、石炭窯が次々と平野部まで築かれていきます。
昭和5年(1930)には「長崎県窯業指導所」が開設され、窯業の技術・指導が行われていきます。
お話は昭和一桁に突入しました。「生まれた頃だなぁ。」なんて、この記事をご覧になっている方がいらっしゃるかもしれませんね。
昭和9年(1934)には「波佐見陶磁器工業組合」が設立されます。
この頃、洋食器や商品銘入りの酒樽などが作られています。お宅の納屋や倉庫に眠っているものがあるのでは?

昭和12年(1937)の日中戦争から次第に窯業も戦時体制になり、昭和14年(1939)に価格等統制令が公布施行され、昭和21年(1946)の物価統制令まで継続しました。昭和14年には第二次世界大戦が始まっています。
統制では窯元銘の番号化「波○○」(○○は算用数字)が知られていますね。だいたい底部にプリントされていました。
「岐○○」は東京都郊外で実際に見たことがありますが、波佐見産を表す「波○○」は実際に見たことがないと思います。流通圏はどうだったのでしょうか?調べてみる必要がありますね。
昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦から戦後はこちらから。

前回の波佐見焼のお話はこちらからどうぞ。








参考文献 : 中野雄二 1999 『波佐見焼400年の歩み』 ,波佐見焼400年祭実行委員会
管理者 : Masa
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2016年10月21日金曜日

波佐見焼

有田焼・伊万里焼ではなく

波佐見焼について

波佐見焼の生産地は長崎県中央北部に位置し、長崎では数少ない海に接しない町の波佐見町です。
約15年前に、車で都内から神戸港へ行き、無謀にも予約なしでカーフェリー(ダイヤモンドフェリー。2011年に株式会社フェリーさんふらわあに合併し解散。)に無事チェックインし、約12時間を船内で過ごし大分港で九州に上陸しました。それから各地を滞在したなかで波佐見の地を訪れ宿泊し、波佐見焼を堪能した思い出があります。


ダイヤモンドフェリー
ダイヤモンドフェリーと神戸港(六甲アイランド)
ダイヤモンドフェリー
ダイヤモンドフェリーと大分港

波佐見焼の平成の世における和食器の出荷額は国内の約20%にも及んで、長崎県で最大、国内で第3位の規模です。しかし、波佐見焼の名はあまり知られていないのではないでしょうか。
平成11年(1999)には波佐見焼開窯400年祭が催されています。
骨董の磁器製品で「古伊万里・伊万里」としているものの中に、多くの波佐見焼が含まれているのです。代表的なのものは「くらわんか手」ですね。

波佐見焼の磁器生産の始まり

波佐見焼の磁器生産開始にも、李朝の陶工が係わっていると推測されています。
有田・伊万里と同様に開始は古く、平成5年(1993)の下稗木場(しもひえこば)窯跡の発掘調査によって、町内最古の登窯であることが明らかになっています。その結果、窯が営まれていた年代は1590~1610年代頃と考えられています。
畑ノ原(はたのはら)窯跡の調査では、陶器と磁器を同時に焼成していたことがわかりまして、窯の操業年代は1610~1630年代頃と考えられています。

陶器生産の窯の廃止

佐賀藩有田・伊万里では寛永14年(1637)藩による窯場統合によって陶器生産主体の窯が廃止されて、染付磁器の生産が主流となっていきます。
大村藩波佐見でも同様になっていきますが、青磁を中心に生産されていきます。
「これからの時代は磁器だ!」と考えたのでしょうね。


青磁の誕生からその後

平成9年(1997)に三股(みつのまた)青磁窯跡の発掘調査が行われました。
出土した大量の青磁は、釉薬・模様の技術が肥前国でトップレベルであったことが確認されています。なお、この窯で生産されたと考えられるものが、滋賀県の彦根城家老屋敷跡、東京都の汐留遺跡龍野藩脇坂家屋敷跡、新潟県の高田城跡、宮城県の仙台城跡等から出土していますので、かなりの高級品だったと考えられています。
その後は、清国(現、中国)の内乱と禁輸により、肥前の焼き物が代わりとなって、長崎出島からの輸出が約40年間続いていき、生産の発展を遂げています。
磁器を選択しておいて良かったですね。

くらわんか

清国が安定すると肥前の焼き物の輸出が衰退したので、国内向けの日用食器を生産していきます。「くらわんか手」です。
波佐見焼といえば「くらわんか手」ですね(個人の見解)。
滋賀県、京都府、大阪府を流れる淀川の三十石船に対して商いをする「くらわんか舟」で使用された食器が、波佐見焼の使い捨てされる安い日用食器だったとのことです。くらわんかの名称は、そこから名付けられたとの説があります。どうなのでしょうかね?
くらわんか手は骨董市等で売られていますが、ちょっと普段使いするのにはお値段が高い気がします(個人の見解)。でも欲しいですね。
今回は江戸時代までのお話で終わります。
次回の波佐見焼のお話はこちらからどうぞ。

参考文献 : 中野雄二 1999 『波佐見焼400年の歩み』 ,波佐見焼400年祭実行委員会
        山口浩一ほか 1996 『波佐見青磁展・くらわんか展』, 世界・森の博覧会波佐見町運営委員会
管理者 : Masa



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2016年10月20日木曜日

伊万里

伊万里(焼)

伊万里
大川内山を訪問

陶磁器などの焼き物は地名から○○焼と名付けられ産地の特定が出来ますが、一般的に江戸~明治時代の伊万里(焼)は広い範囲・地域での産地としてしか分かりません。例外として、プロ・鑑定士・目利きの愛好家や骨董屋さんが調べれば磁器が焼かれた窯の特定まで出来ますが。昨日の記事でこのことを簡単に述べましたが、今回は少し詳しくその訳をみていきます。
様々な書籍・WEB上に書かれている磁器生産の始まりについては、豊臣秀吉の朝鮮出兵から話が始まっています。
朝鮮半島から技術者を連れ帰り、その技術を導入して磁器生産を開始することが可能になった。云々。と。
残念ながら当時の日本には磁器生産の技術が無かったのですね。
そして、江戸時代初期の1610年代に日本で初めての磁器生産が肥前国有田(現、佐賀県有田町)で始まりました。更に現在の長崎県波佐見町等の周辺地域に早くから生産地が拡大していきます。波佐見町は有田町の南に接していますから、当時早々に革命的新技術の拡散が進んだと思われます。
現在の中国等から輸入するしかなかった磁器。土器・炻器・陶器に新たに加わった磁器への興味は強く、磁器の原料である陶石、しかも良質なものから特産品が創られた喜びは大きいことだったのでしょう。




伊万里焼の定義

さて、伊万里の定義というと、出荷港の伊万里港から名付けられたので「伊万里」です。前述したように、磁器は有田町周辺の地域で生産され、しかもこの地域でのみ長い期間生産され続けたことから、消費地では磁器=伊万里(今里、今利)で構わなかったのではないでしょうか。それは、肥前以外で磁器の生産が始まるのは瀬戸で約200年後と、かなり間があったからだと考えられます。
ただし、17世紀末~18世紀初頭から波佐見等で焼かれた粗製磁器・日常食器である「くらわんか」の呼称については、伊万里から枝分かれして独自に「くらわんか」として流通していったのでしょう。そんな事実もあります。
現在では江戸・明治時代の伊万里の産地を表すのは肥前磁器です。大きく地域を捉えている呼称です。なので、美濃焼・瀬戸焼のように肥前焼とすれば分かりやすかったのではと思ったりします。
時代が下って明治時代以降になると、海送から陸送に代わっていき、伊万里市域で焼かれたものは有田焼と分かれて、伊万里焼と呼ばれるようになっていったそうです。
伊万里鍋島焼・鍋島焼については別の機会に考えることにします。
この時期あたりに、伊万里から波佐見焼も分かれたのでしょうか?
次回は波佐見焼について考えてみます。







参考文献 : 大橋康二・鈴田由紀夫・宇治 章・宮原香苗 2007 『古伊万里入門 珠玉の名陶を訪ねて-初期から爛熟期まで-』, 佐賀県立九州陶磁文化館コレクション 株式会社青幻舎
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2016年10月19日水曜日

祝!有田焼創業400年

有田焼

Arita Porcelain Park
有田ポーセリンパークで有田焼を堪能

有田焼創業400年!

今年(2016年)は有田焼創業400年ということです。2013 年に佐賀県が有田焼創業 400 年事業をスタートし、生産地での催事はもとより「そごう・西武」では本日10月19日より新ブランド『「2016/」』(ニーゼロイチロク)の作品を世界に先駆けて販売しています。TVで朝のニュースにもなっていました。
そごう・西武の主催者のプレスリリースによると(抜粋)、
有田焼=日常使いが難しい、価格が高い、美術品といったイメージを持っている方が多いことから、「もっと有田焼が身近なものになって欲しい、有田焼を未来につなげていきたい」
と、あります。
「有田焼って?」という人が多いのではないでしょうか?「骨董での伊万里(焼)なら知っているけど。」そんなことないですかね。
では、伊万里の名称のお話から。本来、有田焼は佐賀県有田町で焼かれた物。伊万里(焼)は佐賀県伊万里市で焼かれた物。ですが、江戸時代に肥前国(現在の佐賀県・長崎県にあたる)で生産された磁器の総称として消費地では「伊万里(焼)」と呼ばれていたとの事です。これは、出荷する港が伊万里港であったからですって。他に長崎県の三川内焼・波佐見焼、他の近隣諸窯産製品も含まれていたそうです。だから、有田焼の名称より伊万里(焼)が知られたのですね。それが現在に至っても知名度が低い(個人的見解)原因の気がするのですが。
「2016/」の参加デザイナーは以下のとおり
柳原照弘、ショルテン&バーイングス、ポーリーン・デルトゥア、レオン・ランスマイヤー、ステファン・ディーツ、トマス・アロンソ、藤城成貴、クリスチャン・メンデルツマ、スタジオ・ウィキ・ソマーズ、ビッグゲーム、クリスチャン・ハース、インゲヤード・ローマン、カースティー・ヴァン・ノート、クーン・カプート、サスキア・ディーツ、タフ。計 16 組(敬称略)。
と、新感覚作品(製品)が多いと思われます。デザイナー製品であっても、普段使えるような価格帯の磁器が取り揃えてあることでしょう。食卓の器を料理によって変えると、食事がさらに楽しくなりそうですね。「料理は器で変わる。」という言葉があります。味覚は勿論なことですが、それよりも視覚がかなり大きな影響を与えているようです。




ホームセンターでの有田焼

ホームセンターに寄ると、必ず陶磁器製の食器売り場を見ています。チェックするのは日本製の食器を販売しているか?日本製なら産地はどこか?です。
今のところ販売されている陶磁器製の食器は日本製が多くを占めています。磁器製の飯茶碗には「有田焼」とシールが貼っているものが多くあり、「美濃焼」より若干割合が高いと感じました。磁器製品ですが「瀬戸焼」ではなく美濃焼です。岐阜県産の磁器製品の販売のほうが盛んということでしょうか。
ほかの食器では、「日本製」とだけ強調しているものが数種類あり、これらの産地がどこなのか、大いに気になっています。

現代の有田焼の火鉢。手描きと転写が併用されています。
現代の有田焼の火鉢。手描きと転写が併用されています。
金彩が華やかです。

伊万里(焼)に続く

さて、最後に伊万里(焼)の事です。(焼)とカッコ書きにしているのには訳があります。現在の生産地における正式名称は伊万里焼で良いとのことですが、伊万里鍋島焼があったりと。このお話はこちらからどうぞ。








管理者 : Masa
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