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2019年2月2日土曜日

福島県の焼き物4「長沼焼・勢至堂焼・福良焼」

福島県会津本郷町の「会津本郷焼」と、会津本郷焼の系統である会津若松市の「蚕養焼」についてはすでにご紹介しました。ここでは、同じ系統である須賀川市長沼の「長沼焼」、須賀川市勢至堂の「勢至堂焼」、郡山市湖南町福良の「福良焼」についてのご紹介です。
これらは個人的に好きな焼き物の最上位となっております。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。





長沼焼

福島県旧岩瀬郡長沼町、現在の須賀川市長沼に窯が築かれましたが、昭和8年(1933)頃には廃窯となっています。

江戸時代の正保4年(1647)には、美濃国から来た水野源左衛門が陶器を焼き始め、その後会津本郷に移ったとされていますが、詳しいことは分かっていません。これは「古長沼焼」としてここでの説明は省きます。
その古長沼焼の開窯から219年後の慶応2年(1866)に、庄屋の矢部富右衛門が独力で窯を築いて陶器を焼き、長沼焼が再興されます。矢部富右衛門は焼き物の技術を福良焼から習得したといわれています。
陶器を焼き始めたものの、すぐに操業資金が不足したので会津藩に助力を願い出ると、お金の代わりに米10俵を貰い受け、領地内の松の木を伐採して燃料とする許可が出ています。
しかし、時代は幕末です。やはり戊辰戦争で混乱し、窯は操業停止となりますが、明治3年(1870)には操業を再開し、磁器生産に着手しています。
長沼焼の磁器は明治時代以降ということです。
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿

 明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に長沼焼でも使われ、写真1-1の手描きの角皿のように絵付けは色鮮やかなヨーロッパの青色となりました。

写真1-2 高台内に「玩」銘
写真1-2 高台内に「玩」銘

この角皿は「福島のやきものと窯」の29頁に掲載されているものと内面外周の絵付が類似しているので、長沼焼であると考えています。裏面が掲載されていないので比較が出来ないのですが、こちらの角皿の高台内(写真1-2)には「玩」の文字が書かれています。この文字は、渡来系陶工の銘款を表しているとの記載がある書物があり、伊万里焼に書かれているようです。このことから、「玩」を書くのは伊万里焼の模倣であって、特に意味をなさないのではないかと思っています。
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます

あと、気になるところは歪みです。写真1-3のようにだいぶ器形が歪んでしまっています。磁土は、いわゆる腰が弱い土だったことを物語っています。
これを裏付けるように、長沼焼の磁土は大皿の製作に向かない腰が弱い土だったので、直径40cmほどの大皿までしか焼成出来なかったと考えられています。
また、高温では皿の高台が潰れてしまうので、高台を厚くして熱に耐えられるようにし、高台内を削っていました。高台内を削るのは、焼成時に皿の底部が下がるのを防止する「蛇の目高台」の作りが代表されるように、高台内を薄くするのが焼成で失敗しない方法で、これはほぼどこの窯でも取り入れていた技法でした。
ちなみに土は後述する勢至堂産とのことです。 

須賀川市立博物館
須賀川市立博物館

長沼焼の磁器を須賀川市立博物館の企画展示で見てきました(2017.11)。「青木忠吉コレクション」も展示されていて、写真2-1と同じ微塵唐草文小皿もありとても参考になりました。

写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

写真2-1・写真3-1の型紙摺り(印判)小皿の見込みは輪状に釉薬を剥いでいます。重ね焼きで器どうしがくっ付いてしまうのを防ぐためで、長沼焼ではこの技法が多くみられます。
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

このやり方は「釉剥ぎ」と言われていますので、その文字のとおり釉薬を剥いで無釉にするとしている説明をほとんどの方がしています。しかし、素焼きの型紙摺絵の場合は、絵付後に釉薬を施した後、釉薬がそんなに綺麗に輪状に剥げるのでしょうか?
もっとも簡単なのは、釉薬を施す前にロウなどの水分を弾く成分をロクロにより輪状に塗布すれば、釉薬が弾かれて(付かなくて)都合が良いと思います。これなら綺麗に輪状に塗れるので、釉薬が綺麗に輪状に塗られない部分が出来上がります。
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)

写真2-2・写真3-2のように型紙摺絵(の顔料)がべっとり高台に付くということは、やはり釉薬を剥いでいるのではなく、釉薬を付けないようにしていると思います。
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)

 さて、長沼にある須賀川市歴史民俗資料館のほうでは、型紙(磁器の文様付け・絵付の型紙摺り)の展示があるので行ってみましたが(2017.11)、「文化の日」なのにお休みでした。まさか休館日だとは、とても残念。土・日・祝日・年末年始(12月29日~1月3日)が休館日ということです。休館日を調べてから行けばよかった…。

須賀川市歴史民俗資料館
須賀川市歴史民俗資料館

 明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、長沼焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。
そして競争に負けてしまった長沼焼は徐々に衰退していきました。
昭和8年(1933)頃には廃窯となってしまい、約70年の歴史に幕を閉じます。




勢至堂焼

旧岩瀬郡長沼町勢至堂、現在の須賀川市長沼勢至堂に明治29年(1896)に、福良焼の陶工である二瓶豊作(初代)氏が移住して開窯しています。
長沼焼も後述する福良焼も勢至堂産の土を使っていましたが、後年になると良い土が採取出来なくなっていったとのことです。鉄分が多く入って斑点も現れ、白さが失われていったのでしょう。肥前地方と瀬戸地方を除いてほとんどの産地で、良質な磁土が近場で手に入らなくなって、磁器の品質が落ちて廃れていく一因となりました。
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)

写真3の型紙摺絵のなます皿(小皿)は胎土と釉薬からみて、終末期の勢至堂焼のものではないかと思っています。型紙摺絵の絵付柄が一般的なものとは違うのが産地同定のヒントになりそうです。
磁土は灰色が強く不純物が多く、釉薬は灰色が強いものです。今後検討していきます。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の 高台には型紙摺絵が付着しています。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の
高台には型紙摺絵が付着しています。

勢至堂焼の窯の終わりは長沼焼と同様で、昭和9年(1934)に廃窯となっています。




福良焼

旧安積郡福良村、現在の郡山市湖南町福良で文化元年(1804)に長谷川兵夫(兵部)氏が誕生開窯(舘ノ下窯)し、天保10年(1839)から磁器を生産しています。
長谷川家二代目の清吾(酒造)氏は、会津本郷焼に弟子入りし磁器の生産技法を取得、絵付が素晴らしく名工と言われています。
染付の徳利の口作りは会津本郷焼に類似します。なお、明治時代の型紙摺絵のものも同様で、勢至堂焼も類似しています。

戊辰戦争の後、明治の初めには、県から生産年賦金(分割して毎年の支払い)を受けて16の民間の窯が復興しました。

その後、長沼焼、勢至堂焼と同様ですがこちらは早く、大正5年(1916)に三代目の栄次氏が亡くなった後、廃窯となっています。

詳しくは後日別ページにて。

なお、上記の焼き物の系統を同じくする、現在の郡山市湖南町湖南の「湖南焼」については後日追記になります。



2021.7.22追記
長沼焼と考えられる磁器の徳利などを手に入れていますので、機会を見てアップします。

参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 福島県立博物館 1997『企画展 染める-会津型の技と文化-』,
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業

管理者 : Masa
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2018年7月29日日曜日

福島県の焼き物3「蚕養焼」

現在は焼かれていない(廃窯)焼き物のご紹介です。
須賀川市・会津若松市・郡山市・喜多方市など、特に猪苗代湖の北西・西・南東側に多くの焼き物の窯が存在していました。
現在それらは「会津本郷系」、あるいは福島県の焼き物と分からずに、「東北系」「古伊万里・伊万里」として流通しています。お手元にある「伊万里」もそうかもしれません。
これからご紹介する「蚕養焼」は、窯跡の発掘調査報告がされている近世・近代の焼き物で、しかも昭和48年(1973)と平成26年(2014)の2度調査されています。
東北地方で近世・近代の窯跡の発掘調査がかなり少ない中で貴重です。
蚕養焼の窯跡の現在の様子
現在は白虎通りと宅地になっている蚕養焼の窯跡の様子

蚕養(こがい)焼
窯の所在地、開窯と廃窯時期
現在の福島県会津若松市蚕養町に、江戸時代の文政13年(1830)、木村佐内が会津藩の許可のもと窯を開きました。
終わりは昭和初期(1926年~1930年代前半?)とされています。

焼いていた製品

磁器製品で、碗、蓋、皿、鉢、盃、蕎麦猪口、急須、徳利、擂鉢、合子、仏飯器、段重、植木鉢などです。
中世から陶器製の擂鉢が多く流通していた中で、磁器製の擂鉢は比較的珍しいのではないでしょうか?切込焼のものは文献で見たことがありますが。

江戸時代の蚕養焼

開窯9年後の天保7年(1839)には会津藩の御用窯になり、会津本郷焼で磁器の焼成に成功した伊藤伊兵衛の息子である陶吾の弟子、佐藤新兵衛(瀬戸師の棟梁)が蚕養焼を盛んにしたといわれています。
蚕養焼は江戸時代末期(幕末)において「蚕養瀬戸」として「會津名物類聚」に記されています。
「會津名物類聚」は大須賀清光(文化5年~明治8年、1808~1875)が嘉永7年・安政元年(1854)頃に出版した『會津千代松袖鑑』に収録されている番付で、会津地方の名産品が記されているものです。
この番付には大関、関脇、小結、前頭があり、東にあたる関脇はなんと「本郷瀬戸」です。会津本郷焼の瀬戸物です。もう一方の西にあたる関脇は地張煙筒で、煙筒とはキセルのことでしょう。そして焼き物では他に、前頭の「慶山陶器」があります。慶山焼(会津若松市東山町)は陶器です。
そして「蚕養瀬戸」は西にあたる前頭の上の方にあります。瀬戸ですから瀬戸物=磁器。磁器生産が主ということを表しています。
ちなみに東の大関は「會津蝋燭」、これは現在の会津絵ろうそくでしょう。西の大関は「若松塗物」で、これは会津塗(漆器)ですね。
番付には出ていませんが、天保年間(1830~43)頃開窯で、蚕養窯跡の約2km南西の会津若松市材木町に存在した材木町焼が気になるところです。明治時代初めまで続き、「材木町窯跡」では、陶磁器(磁器有り)が発見されているとのことです。
会津若松市北会津町にあった上荒井新田焼も気になります。文政6年(1823)に佐藤伊兵衛の門弟が磁器の窯を再興しているのです。
これらは蚕養焼との違いはあったのでしょうか?
写真1. 江戸時代後期の蚕養焼と思われる蕎麦猪口
写真1. 江戸時代後期の蚕養焼と思われる蕎麦猪口

この写真1の唐草文蕎麦猪口は江戸時代後期のものと思われます。
絵付けは天然呉須の手描きで、肥前系(古伊万里)の同種のものより絵付けが少し素朴です。それが魅力的なのですが。
描かれた葉はデフォルメというか一筆書きで元の葉の形状を失っています。蝶のようにも見えます。
この文様が蚕養焼の特徴の一つと考えられています。
蛇の目高台は施釉されていないので、ここで胎土をみるとだいぶ褐色の不純物が混入しているように見えますが、これは焼成時の付着物のようです。器を回転させて調整した際に出来た小さな穴に付着物が入り込んでいると思われます。念のため漂白して、クリーニングを念入りにしましたが落ちませんでした。
なぜ不純物の付着なのかもしれないと判断したかというと、この蕎麦猪口は欠けている箇所が多くありまして、そこを見ると胎土は白く不純物の含有が少ないからです。
なお、底部の写真を見て黒く薄い文字に気付かれた方がいらっしゃるかもしれません。これは汚れではなく、所有者か管理を示す判読不明の墨書が薄らと残っているものです。
磁肌は白く仕上がっていて外見は上等です。
さて、この写真の蕎麦猪口は文様の感じからみると蚕養焼と考えられますが、胎土が良(白)過ぎ?なため確証はありません。周辺の窯の発掘調査がまだ行われていないので、比較検討が出来ないからです。
「蚕養焼と思われる」としておきます。
なお、産地の疑問についてはさらに後述しています。

ここで、文様の唐草文について
写真1の文様でもう少し丁寧に描かれている古伊万里などでの文様を「萩唐草文」と呼ぶのですが、「萩唐草文」という名称について疑問があるので、ここで考えてみます。
唐草文について以下引用です。

「唐草の名称の由来は明らかではない。マメ科の馬肥(うまごやし)という蔓草を文様化したとも、唐風の草の文様という説もある。いずれにしても曲線状に蔓を表した文様であり、古くからみられる。」(2014大橋康二)

「いずれにしても曲線状に蔓を表した文様である」

そうすると、萩唐草文という呼び方で良いのでしょうか?
萩は枝垂れるけど蔓が無いのです…。
萩唐草文に花(主に大きく描かれる一輪ずつの花)が付くと花唐草文ですが、これは唐草文に牡丹(牡丹唐草文となる)など別の種類の花が描かれるものです。
萩唐草文は、そもそも萩を図化しているのでしょうか?
葉と葉脈とされているものは果たして本当に萩の葉なのでしょうか?
萩唐草文の蔓から無数に伸びる巻きヒゲ状のものは何でしょうか?
実物の萩を観察するとそのようなものはありません。
萩を図化したとして実物を文様(絵)に無理やり置き換えてみると、巻きヒゲ状のものは簡略化された葉で、葉と葉脈とされているものは花。
そして蔓状に描かれる枝。萩の木は枝垂れますが、蔓にはなりませんので置き換えられません。

萩唐草文に似る植物で、しっくりくるのは蔦(ツタ)。
葉は文様(絵)にそっくりで、巻きヒゲ状のものはまさに巻きヒゲで、実物はその先に小さな吸盤があります。なんと、古伊万里でも吸盤状のものが描かれていたりします。
しかも蔓性。
萩と蔦の絵を描いたらどちらが「萩唐草文」に似ているか…。
唐草文は元々蔦植物を図案化した文様だし…。
なかには、「蔦唐草文」と呼んでいる方もいらっしゃいます。ごく自然に。
蔦(ツタ)。唐草文にそっくり。
蔦(ツタ)。唐草文にそっくり。

蔦(ツタ)
蔦(ツタ)

蔦(ツタ)
蔦(ツタ)
蔦(ツタ)。やはり唐草文にそっくり。
蔦(ツタ)。やはり唐草文にそっくり。


疑問はここまでにして、一般的(骨董界)には萩唐草文で通っていますのでそのようにしておきます。

なお、萩唐草文は時代が下ると文様を簡略化して描いていると考えられます。最終形の一つは微塵唐草文でしょう。微塵唐草文に至る過程で、葉の描き方が変化したと思われる文様を捉えて、「松葉に微塵唐草文」と表現する方もいらっしゃいます。なるほど、三階松・三蓋松(さんがいまつ)の松一つ分に見えますが、松葉ではなく、蔦の葉が変化したしたものだと思います。





蚕養焼蕎麦猪口の産地決定に大きな問題が
萩唐草文の疑問に続いて、産地決定について疑問というか問題が。
宮崎県の切込焼の窯跡(宮城県文化財保護協会 1990)で出土した飯茶碗の一つに描かれている文様が、なんと先述した蕎麦猪口(写真1)のものとそっくりなのです。
蚕養焼の特徴の一つとされている文様と。
これでは文様を頼り(似ている)にした産地決定は不確実ということになります。
やはり胎土まで見ないと駄目ですね。しかし、本来は割れ口で胎土を見ないと駄目ですから、なかなか困難です。さらに、精製品と粗製品、焼かれた時期でも違うのでなんとも難しいところです。走査型電子顕微鏡などで胎土分析をしなくては分からないのではないでしょうか。
さて、切込焼の唐草文、こちらの文様は「胡蝶唐草文」と記載してあります。胡蝶のほうがイメージ的には合っていますね。先述した「松葉に微塵唐草文」とされている「松葉」に葉脈が描かれないものに類似しています。もしかしたら「松葉」部分を蝶のデフォルメとイメージして描いているのかもしれません。
また、飯茶碗の蓋2枚にも同様の文様がありますが、こちらは「巻きヒゲ」の描き方が少し違って丸みが強く密になっています。さらに、この内1枚は「巻きヒゲ」の描き方が、楕円形を半分に切ったようなものになっています。
これは、後に述べている微塵唐草文出現の初期段階にあたると考えています。
器種を変えて蚕養窯跡出土の長皿をみてみると、世間で切込焼とされている長皿と文様が似るものがあります。掲載されている蚕養窯出土のものは小さめの破片で少ないので、はっきりとはしないのですが。
世間で切込焼の長皿とされているものは、切込焼の窯跡の調査報告書では掲載されていませんので、今後調べていきます。

戊辰戦争・会津戦争での蚕養焼
慶応4年・明治元年(1868)~ 明治2年(1869)に新政府軍(明治政府)と旧徳川幕府勢・奥羽越列藩同盟の戦いにより会津は戦場となり、窯業は一時停止となります。
窯跡の約100m南側に位置する蚕養國神社近くの畑では、埋葬を待つ22名の旧徳川幕府勢の戦死者があったなど、朝敵となった会津藩、現在の会津若松市内は悲惨な状態となったそうです。
昨年、蚕養國神社周辺を訪れましたが、往時をうかがい知ることはできませんでした。

明治時代以降の蚕養焼

会津戦争後、松平容保の嫡男である容大に家名存続が許されました。それにより転封先に立藩した斗南藩(のち斗南県、現在の青森県東部)から戻った元藩士の伊藤辰右衛門など6名で、民窯(民間の窯)として再開されます。
写真2. 江戸時代末期~明治時代初期の蚕養焼と思われる蕎麦猪口
写真2. 江戸時代末期~明治時代初期の蚕養焼と思われる蕎麦猪口

この写真2の蕎麦猪口も、写真1と同じ唐草文で、江戸時代末期~明治時代初期のものと考えられます。
『年代別 蕎麦猪口大事典』に「会津蚕養窯」として掲載されているものに文様がかなり類似しています。掲載されているものは1800~60年代、「唐草文」としてあります。
絵付けは天然呉須を使用した手描きです。
写真1の文様よりも簡略化されて描かれていまして、葉脈と長い蔓は残っています。巻きヒゲは横四段で逆U字形に連続して描かれ、葉は一筆書きの蝶のようになっています。
蛇の目高台で見ると汚れとは違って、胎土にはかなり褐色の不純物が混じり、磁肌はくすみ、灰白色に近い色調です。この蕎麦猪口は胎土が伊万里焼、瀬戸・美濃焼とは違うので、蚕養焼あるいは周辺の窯産なのかもしれません。

絵付けに合成呉須(ベロ藍)
明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に蚕養焼でも使われました。
明治15年~20年(1882~1887)には窯が3基稼働し、蚕養焼は最盛期を迎えています。最盛期を支えたのは型紙刷絵による絵付け、いわゆる印判です。
写真3. 明治時代の蚕養焼と思われる蕎麦猪口
写真3. 明治時代の蚕養焼と思われる蕎麦猪口

この写真3の明治時代の蕎麦猪口は、ベロ藍を用いて手描きで絵付けされています。高台は蛇の目高台です。
長い蔓は残っていますが、葉脈は省略されて描かれていません。巻きヒゲは横五段で逆U字形に連続して描かれ、葉脈が無い葉はもはや一筆書きの蝶で、写真2のものよりも少なく描かれています。
蛇の目高台で見ると胎土には褐色の不純物が混じりますが、写真2のものよりも少ないです。磁肌の白さは写真1よりも程度が落ちますが写真2よりはかなり上等です。

蚕養窯跡の発掘調査報告書に掲載されている、蕎麦猪口・碗・碗蓋・小皿・鈴徳利に、蔓を除けば極めて類似している文様があります(2018.8.1追記)。

これも胎土と文様から蚕養焼と思われますが確証はありません。
これに類似する文様ですが、高台が輪高台(ベタ高台)の蕎麦猪口を見たことがあります。その作りと時代から考えると瀬戸・美濃焼だと思いました。
類似する文様があるということです。

ここで少し違う文様を見てみます。著作権の問題で写真を転載できませんので文字だけで。
『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』に掲載されている、古川喜一郎氏による明治中期の「染付唐草文蓋付壺台」です。
「蝶」的文様と「蔓」がこれまで見てきたものと同類なのですが、「巻きヒゲ」の描き方に違いがあり、渦繋ぎ文あるいは七宝繋ぎ文を上下で分裂させて偏平にしたような横二重鎖繋ぎ状に描かれていまして、これは別物になっています。ちなみに、この蝶的文様に葉脈はありません。
この文様で、蝶的文様が描かれないものは、出土した蚕養焼の皿の絵付けに多く見られます。

明治時代の会津本郷系?の向付あるいは小杯・小碗
明治時代の会津本郷系?の向付あるいは小杯・小碗
底部のトチン痕
底部のトチン痕

この写真4は明治時代の向付あるいは小杯・小碗です。手描きでベロ藍を用いています。
5客あるのですが、内1客は蛇の目高台の中心を厚く削りすぎているため、なんと小さな穴が開いています。中心に施釉してはいるのですが、残念なことに掛け方が雑なので釉薬が掛かっていない所が穴と重複してしまっています。
液体を入れると漏れてしまいますので、汁物を入れない向付としてなんとか使われていたのでしょう。
底部は全体的に薄い造りで、残りの4客も照明に底を向けるとまるで蛍焼のように光が透けて見える薄さです。
胎土には褐色の不純物が少々混じりますが、写真3のものよりも少ないです。磁肌の白さは写真2よりも上等です。
窯道具のハマは底部の痕跡からみると平面は扇形です。調査報告書で窯道具を調べてみましたが、該当するものはありませんでした。ですので、今のところ蚕養焼の可能性が有るという程度で、会津本郷系のものではないかと考えています。

写真5. 会津本郷系?の蕎麦猪口
写真5. 会津本郷系?の蕎麦猪口

写真5は明治時代の蕎麦猪口2点。手描きでベロ藍を用いています。
これは今までのものより時代が下った蕎麦猪口で、外面の文様が退化しています。
器面を文様で埋め尽くすために、巻きヒゲを整列させた文様です。この文様に類似するものが結構出回っているので、今後詳しく調べてみる必要があります。
この2客の蕎麦猪口は一見同じようですが、胎土と底部の作りが大きく違っています。この違いは時期差ではなく、おそらく生産地が違うのだろうと思います。
写真左側のものは比較的胎土が白く、右側のものはくすんでいます。底部の整形方法も違います。
文様をみると外面は微塵唐草文だけで、蝶的な葉と蔓は無くなっています。
この文様を石垣文としているものもあります。石垣文と似ていますが、意図しているものは別物だと思います。

写真1~4には内面に文様がありませんでしたが、この2点の口縁には四方襷が簡略化されたような網目文に簡略化した花、見込みには簡略化した火焔宝珠文が描かれています。いずれも簡略化文様です。
調査報告書での掲載が無い文様なので、これは蚕養焼の可能性があるか分かりません。ただし、文様の系統と胎土からみると会津本郷系の焼き物である可能性が高いと思いましたので、文様の変遷をみる上でもここに掲載しておきました。
写真6. 明治時代の鈴徳利の微塵唐草文
写真6. 明治時代の鈴徳利の微塵唐草文

写真6は明治時代の鈴徳利のアップ写真です。
この鈴徳利の文様は微塵唐草文で、型紙摺り(印判)です。
「巻きヒゲ」が密に描かれ(刷られ)、葉脈が描かれている葉が散らばっています。
会津本郷焼とされていたものなので、微塵唐草文の参考に掲載しました。口縁の作りが一般的な会津本郷焼のものとは違いまして、これは口に縄を掛けると外れやすい形状です。

なお、同様の文様は「蚕養窯跡」発掘調査報告書に掲載されている小皿にあります(2018.8.1追記)。
また、「長沼焼(※写真7以下参照)」の大皿にも同様の文様があるのを、須賀川市立博物館で確認しています(2018.10.25追記)。
同種のものが油徳利として、北関東地方の歴史民俗資料館などの展示物に見られますので、会津地方で販売された美濃焼の可能性があります。
この徳利については今後調べますので、分かり次第追記したいと思います。

写真7. 微塵唐草文の長沼焼小皿
写真7. 微塵唐草文の長沼焼小皿

写真7は、微塵(ミジン)唐草文の参考のため掲載しました。
福島県須賀川市長沼で焼かれていた明治時代の長沼焼の小皿で、型紙摺り(印判)です。同種のものを須賀川市立博物館の企画展示で見てきました。蚕養焼と密接な関係にあると思われます。
微塵唐草文を「ミジンコ文」と紹介されているのをたまに見受けますが、ミジンコは水中プランクトンなので違うと思います。
この微塵唐草文には葉は描かれていません。

また、微塵唐草文で蔓がないものを「鹿の子文」としているのもありますが、文様の鹿の子とは違いますので、間違えだと思います。





唐草文の変遷

蚕養焼の鑑定の一つになる唐草文の変遷をみてみると、蔓が残るものの巻きヒゲがU字状や逆U字状で強調されていき、最後には蔓が消滅して巻きヒゲが強調された文様になったと思われます。
写真1~5の蕎麦猪口では、1の時代が最も古く、2―3―4―5と時代が新しくなっていっていると考えられます。
なお、このブログでの文様からみた変遷は、明治時代の既出の磁器編年からみたものではないことをお断りしておきます。後日、磁器の編年から再考を試みたいと思っています。

蚕養焼の終わり
明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、蚕養焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。
そして競争に負けてしまった蚕養焼は徐々に衰退していきました。
大正時代末期(~1926)まで伊藤辰吉氏によって続けられましたが、昭和初期には廃窯となってしまい、約100年の歴史に幕を閉じます。


蕎麦猪口からみた蚕養焼に関連すると思われる唐草文の変遷が気になっていたので、今回はそのことが中心となりました。今後、蚕養窯についての詳しい内容をアップしていきます。

追記は、何か判明し次第行っていきますので(2018.8.1追記)。

次は、福島県における磁器の長沼焼、勢至堂焼、福良焼、湖南焼についてです。




2021.7.22追記
蚕養焼の磁器小皿などを手に入れましたので、機会を見てアップしていきます。
参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
     : 大橋康二 2008『年代別 蕎麦猪口大事典』, 株式会社講談社
     : 大橋康二 2014『文様別 小皿・手塩皿図鑑 佐賀県立九州陶磁文化館柴田夫妻コレクション』, 株式会社青幻舎
             : 古賀 孝 1974『切込焼』, 株式会社雄山閣
     : 芹沢長介 1978『宮城県加美郡宮崎町切込西山磁器工房址 切込』東北大学文学部考古学研究会 考古学資料集 別冊1
             : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 松岡寿夫 2003『藍のそば猪口700選』, 株式会社小学館
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 宮城県文化財保護協会 1990『切込窯跡 近世磁器窯跡の調査』宮崎町文化財調査報告書第3集
     : 料治熊太 1973『そば猪口』, 河出書房新社
       : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業



管理者 : Masa
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2017年5月26日金曜日

福島県の焼き物2

会津本郷焼について1

会津本郷焼について第1回目のお話です。
この写真の碗は、会津本郷焼の伝統を汲む、現代の窯元紋平窯「流紋焼」の抹茶碗です。
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗

会津本郷焼という名称
昭和44年(1969)刊行の「會津本郷焼の歩み」に分かりやすく記載されていますので、以下に直接引用しています。
「これが会津本郷焼と呼ばれるようになつ(ママ)たのは比較的最近のことで、藩政期には本郷焼の名で近在の人々に親しまれ、明治期にはいってからは会津焼として広く日本国中の人々に知られてきた。会津焼は本郷焼だけでなく、いまは絶えてしまったが、のちに本郷焼から分かれた若松の蚕養焼や安積郡福良の福良焼などを含み、さらにこれらと同系統に属した岩瀬郡長沼の長沼焼や同じく勢至堂の勢至堂焼なども、広くいえば会津焼にはいる。会津本郷焼という呼称は、これらの会津焼の中心として一頭地を抜いている伝統の本郷焼の地位をあらわすものとして、また内外の呼称を統一するものとして、誠にふさわしい。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p3)
会津本郷焼の所在地
現在の福島県大沼郡会津美里町に窯が所在します。会津美里町は、平成17年(2005)に大沼郡会津本郷町と会津高田町と新鶴村が合併して出来た町です。
東隣の会津若松市にはかつて瓦窯が存在しましたが、その後昭和前期に途絶えてしまいました。現在は、「会津慶山焼」として復興しています。「会津慶山焼」については後日のご紹介になります。

本郷焼の前身

安土桃山時代の天正20・文禄元~2年(1592~1593)、伊勢国より陸奥国会津に移封(いほう)されたキリシタン大名の蒲生氏郷が、鶴ヶ城(旧黒川城、会津若松城・若松城)の修理・改築の際に、南青木組小田村(現在の会津若松市門田町黒岩)で城に葺く素焼きの瓦を焼かせています。
瓦工は石川久左衛門ほか3名が播磨国(現在の兵庫県南西部)から招かれています。
ちなみに城の名は、蒲生家の家紋「舞鶴」と蒲生氏郷の幼名「鶴千代」から付けられたものです。
雪の後の「鶴ヶ城」訪問時
雪の後の「鶴ヶ城」訪問時

本郷焼の陶祖となる水野家

仙道筋長沼(岩瀬郡長沼町、現在の須賀川市長沼)では、尾張国瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)の陶工である水野源左衛門が、弟の長兵衛と共に窯を開き陶器類を生産していました。
長兵衛はのちに瀬戸右衛門と改名します。名前に「瀬戸」が付きました。
そして気になることが「長沼」です。昭和初期に絶えてしまった「長沼焼」の所在地です。近代の長沼焼の印判手はかなり気になる存在です。長沼焼については機会を見てご紹介します。


本郷焼の始まり

江戸時代の正保2年(1645)頃に、会津藩主の保科正之(会津松平家初代で徳川家康の孫)によって、長沼から水野源左衛門が招かれて、陶器の製造を命じられたと考えられています。これが本郷焼の始まりの元となっています。
その後、若松徒ノ町井上浄光寺に仮住まいし、陶土の調査を行っています。
そして、この付近で小さな窯を築いて、試し焼きを行ったと考えられています。
正保4年(1647)には本郷村に移住して、本格的に茶碗・水指・香炉・人形などの生産を開始しました。本郷焼の始まりです。
さらに瓦焼きの窯場も本郷に築かれています。
水野源左衛門が亡くなった翌年の慶安元年(1648)には、長沼から水野源左衛門の弟の長兵衛が招かれています。
そして、城の脆弱な黒瓦に代わって、寒さに耐える釉薬を施した赤瓦を新たに作り出しました。

本郷焼の発展

延宝7年(1679)に江戸の浅草で陶法の伝習を受け、水簸によって陶土を作ることを始めたので、良質な陶器の生産が出来るようになりました。
本郷村の絵図には、それまで「瓦作家(かわらづくりや)」と描かれていたのに、天和3年(1683)には、「瀬戸屋」と描かれるようになっています。瓦以外にいわゆる粗物(そぶつ)と呼ばれる主に庶民用の甕・擂鉢・徳利が焼かれていたことが、そのことから分かります。

本郷焼の磁器焼成

本郷焼の陶器は徐々に品質が向上していきましたが、瀬戸の陶器や肥前系の磁器製品に比べると、だいぶ見劣りがしたとのことです。
そこで藩は安永6年(1777)、磁器の製造を始めるため、江戸から陶工の近藤平吉を招いて召し抱えます。
そして、瓦役所定番の佐藤佐吉の長男円治と二男の伊兵衛が白磁の製造を志していたので、他の者と共に近藤平吉から伝習させました。
ここでおかしなことに気が付きます。磁器を作るのに陶器の職人を招いているのです。
肥前では磁器製造技術の流出を防いでいました。磁器職人を招くのは無理だったので、仕方なく陶工を招いたのですね。
結果として、近藤平吉は元々陶器の「楽焼」が専門だったので、磁器の製造に通じていなくて失敗し、数年後には御役御免になっています。
その後は、佐藤伊兵衛が染付の茶碗を作ることに成功し、せっ(火へんに石)器質(半磁器)の製品まで作ることが出来ています。
しかし、肥前系の磁器の出来には遠く及ばないので、藩の援助のもと、寛政9年(1797)に36歳で焼き物の産地に技術の視察を兼ねた旅に出ます。
江戸、志戸呂焼、瀬戸焼、織部焼、常滑焼、美濃焼、信楽焼、京焼などを経て肥前有田に入ります。
有田では技術の流出に厳しい取り締まりをしていたので、万全の態勢で潜入しています。
ここで、土(陶土)ではなく白石(陶石)を砕き、粉にして磁器を焼いていることなどを知ります。
さらに、長崎、小倉、下関、萩焼、備前焼などを見て回り、大阪、京都楽焼で修業し、江戸を経て、会津に寛政10年(1798)帰国(帰藩)しました。
寛政11年(1799)には、石焼(磁器)製造のため役場を設置し、佐藤伊兵衛を瀬戸方棟梁として体制を整えます。
そして寛政12年(1800)、肥前磁器風の丸窯を築いて技術を取り入れ、白磁焼成に成功しています。
ただし、たいがいの磁器製品は還元焼成(窯内に酸素が足りていない状態)で焼くのですが、当時は酸化焼成(窯内にじゅうぶんな酸素がある状態)だけの技術しかなく、製品は肥前系に比べると劣るものでした。
なお肥前系以外の磁器の焼成は、文化4年(1807)に瀬戸で加藤民吉が白磁化に成功しています。

佐藤伊兵衛の受難

瀬戸方は町奉行の支配下にあるのですが、奉行の悪事を訴えるために文化元年(1804)、伊兵衛は瀬戸方を辞職してしまいます。
訴えた結果、奉行は有罪となります。伊兵衛はというと、奉行を訴えた罪で耳と鼻を削がれる刑に処されました。
なんとういことでしょう。

佐藤伊兵衛のさらなる活躍

しかし、伊兵衛は改めて職を命じられて、さらに白磁の製造に貢献していきます。
生来の職人だったのですね。

本郷焼の磁器と陶器

伊兵衛の活躍のおかげで、本郷焼では陶器の製造から磁器の製造へと多くが転向しました。
そのなかで一部が陶器の製造のまま残っていきます。
ここで「会津本郷焼」は磁器(白磁)と陶器(粗物)に分かれたのでした。

会津本郷焼の明治時代

幕末の戊辰戦争では会津本郷焼も多大な被害を受けてしまいましたが、陶器生産の窯元である宗像窯を中心に復興していきます。
そして明治5年(1872)、唯一の磁器の窯元となった佐竹富太郎の弟の富三郎が分家し、富三窯を開窯しました。
当時の富三窯の代表的な製品は、南画風の山水画を描いた染付茶器のセットです。
明治時代の初期は人工的に作られた顔料のコバルト青(ベロ藍)による型紙摺りの絵付、いわゆる印判(手)が各地で始まった時期です。
会津本郷焼の印判手に関しては後日のお話になります。その時には、他の磁器の多くの産地と同様に、熊本県天草下島の「天草陶石」の購入と使用についても考えていきます。
会津本郷焼では明治13年(1880)、顔料に合成呉須(ベロ藍。コバルト青)の使用を始めています。他に比べて少々遅い時期の導入です。
それまでは天然呉須(酸化コバルトが主成分)を使用していたということですので、明治になってからも江戸時代的な染付が行われていたのでしょう。

本郷焼の繁栄と現在の骨董的流通量

「明治初年には会津本郷焼を京・伊万里ものと称して売つ(ママ)てもなんら怪しまれなかつ(ママ)たという。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p6)
富三焼のことでしょう。
「明治中期から大正初期にかけての全盛時代の本郷には、富三焼のようなすぐれた白磁を製作する窯元はたくさんいたし、また川綱氏のようなすぐれた陶画家も幾人もいた。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p218)
それならば、この時の製品は現在の骨董品の流通にも反映されているはずです。
しかし、「古伊万里・伊万里」製品ばかりで、本郷焼と紹介している製品はなかなか見当たりません。どこに行ってしまっているのでしょうか?
本郷焼の窯は発掘調査されていないため不明な点が多いことから同定が出来ず、現在はこのようなことになっていると思われます。
会津本郷焼系といわれる「蚕養焼(こがいやき)」の窯が存在した会津若松市では、昭和58年(1983)と平成26年(2014)に宅地造成などのため発掘調査がされ、「蚕養窯跡発掘調査概報」「蚕養窯跡発掘調査報告書」と「蚕養窯跡」として刊行されています。
これによって、磁器を焼いていた蚕養焼の解明がだいぶ進んでいますが、骨董品としての「会津本郷焼」と「蚕養焼」との区別は、ほとんどにおいて明確になされていません。

追記2017.12.31
先日、須賀川市の長沼焼・勢至堂焼、郡山市の福良焼の地、会津若松市の蚕養窯跡を訪れてきました。この成果は2018年1月中に投稿しようと思っております。
ここでまた19世紀江戸時代後期からの磁器生産が大いに気になるところです。
古伊万里・伊万里として世に出回っている「そば猪口」の中で、実は会津本郷焼のものが割合までは分かりませんが結構あります。
そば猪口は口縁に鉄釉(いわゆる口紅)を施し、外面の文様は山水が多く、見込みの文様は島のものが代表的です。
また、見込みの文様は、宮城県加美郡加美町(旧宮崎町)の切込焼(きりごめやき)に似ている(松岡 2003)とありますが、その切込焼には島・岩・波・雲・鳥・家屋などがあります。
磁器製品のみを生産した切込焼の創業年については諸説ありますが、染付筒茶碗(仙台市博物館蔵)に記された記念銘が「天保6年(1835)」ですのでこの頃だともいわれています。そうすると、会津本郷焼よりも磁器生産の開始が遅かったと考えられます。
また、切込焼と類似する製品を焼いていて密接な関係にあった山形県山形市の平清水焼(ひらしみずやき)は、文化年間(1804~1817)に開窯されたといわれていますが、定かではありません。
この平清水焼は当初磁器を焼いていましたが、その後陶器に変わっていきます。
これらのことから、会津本郷焼と切込焼と平清水焼は関連性をもっていたと考えられますが、いずれも資料が少ないため推測の域を出ないままです。事実が判明し次第こちらに追記していきます。
また、平清水焼と知る人ぞ知る切込焼に関してのお話は、近いうちにと考えています。

会津本郷焼で碍子の生産

明治23年(1890)には碍子(ガイシ)の製造が始まり、これが明治27年(1894)から始まって翌年に終わった日清戦争の特需で生産に追われていきます。
碍子とは、電線を電信柱などに絶縁して固定させる器具です。電信柱を見ると白い磁器製の器具が付いています。あれが碍子です。
戦地での需要増によって陸軍省から矢のような納品催促があり、磐越西線が開通していない当時、日本鉄道の駅がある郡山までの15里(約58.5km)をほぼ徒歩での納品でした。豪雪で苦労したとのことです。
その後、高圧碍子の製造販売が成功したりしますが、大正5年(1916)5月12日12時50分過ぎに本郷町大火災が発生し、町は灰燼と化してしまいます。戊辰戦争以来の致命的な打撃になってしまいました。
この時に熟練の職人が、京都、美濃、四日市、肥前などに転出してしまっています。
追い打ちをかけるように、大正9年(1920)には、第一次世界大戦後の経済恐慌によって、一大碍子製造会社を設立する計画が無くなってしまいます。

会津本郷焼の太平洋戦争から戦後

国策会社の東北窯業株式会社が設立されます。
戦後は進駐軍によって、軍需工場取扱いの規定を受けてしまい、60万円の現金返還と80万円にのぼる未収金の回収を放棄させられます。
昭和25年(1950)には、12の工場からなる「会津碍子事業協同組合」が設立されています。
翌年には朝鮮戦争の特需によって、碍子の製造が一時的にさかんとなりました。
昭和33年(1958)、ブリュッセル万国博覧会で「にしん鉢」がグランプリを受賞しています。
にしん(鰊・ニシン)鉢は「ニシンの山椒漬け」を作る長方形の器で、身欠きニシンと山椒の若葉を交互に、醤油・酢・酒もしくはポン酢などで作るタレに数日から2、3週間漬けたものです。
昭和38年(1963)には、東北窯業株式会社の赤字が3千数百万円となり閉鎖となりましたが、まもなく、会津碍子株式会社が買い取りをしています。

会津本郷焼の現代

平成29年(2017)現在、会津美里町の観光ポータルサイトによると、会津本郷焼事業協同組合に加盟している窯元が14軒紹介されています。
そのなかで富三窯だけが磁器を焼いています。
冬の夜の会津若松市市内
冬の夜の会津若松市市内

本郷せと市

8月の第1日曜日には、本郷地域の瀬戸町通りで「本郷せと市」が開催されます。
詳細は会津美里町のポータルサイトでご確認ください。
高速道路を利用する場合は、平成28年(2016)のパンフレットによると、磐越自動車道の会津若松インターチェンジから約30分、新鶴スマートインターチェンジからは約20分掛かるとのことです。なお、新鶴スマートインターはETC車載器搭載車専用ですので注意が必要です。
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗の高台銘
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗の高台銘

以上、概要をかいつまんでのお話になりましたので、さらに詳細は後日と致します。



参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
             : 青柳栄次 1999『全国焼き物体験』, 株式会社昭文社
     : 小川啓司 1974『そば猪口絵柄事典』, 株式会社光芸出版
     : 黒田一哉 1988『図鑑 日本やきもの巡り』, 株式会社光芸出版
             : 古賀 孝 1974『切込焼』, 株式会社雄山閣
     : 芹沢長介 1978『宮城県加美郡宮崎町切込西山磁器工房址 切込』東北大学文学部考古学研究会 考古学資料集 別冊1
             : 東北大学埋蔵文化財調査室 2017『仙台城跡二の丸第18地点』東北大学埋蔵文化財調査室調査報告6
             : 東北陶磁文化館 1987『東北の近世陶磁』
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 松岡寿夫 2003『藍のそば猪口700選』, 株式会社小学館
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 宮城県文化財保護協会 1990『切込窯跡 近世磁器窯跡の調査』宮崎町文化財調査報告書第3集
     : 料治熊太 1973『そば猪口』, 河出書房新社
       : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992『日本のやきもの8 薩摩・民窯』,  株式会社講談社
     : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業
管理者 : Masa
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