2020年3月29日日曜日

令和2年(2020)3月29日の降雪

桜(ソメイヨシノ)が散り始めでも雪の日曜日です。今季はほとんど冬を感じないような天候で、雪なんてほぼ降らなかったのに、春が進んだいまになって降雪&積雪となりました。
都心で3月下旬以降に1cm以上の積雪を観測したのは、昭和63年(1988)以来32年ぶりとのことで。
防虫ネットと黒マルチを利用して積雪対策
雪降る中、防虫ネットと黒マルチを利用
して積雪対策。





豆類の雪対策

積雪対策が土曜日に出来なかったので雪降る中、畑行きです。

ソラマメはかなり成長して花が咲いている状態、スナップエンドウはツルが伸びて株がこんもりしている状態、キヌサヤはツルが伸びだしてきている状態。
この成長した状態では耐寒性がとても弱くなっているので、積雪して凍ってしまうと全滅になる可能性が大きいと思い、対策をしてみました。

手持ちの防寒用品がないので、防虫ネットと黒マルチを利用することに。
ソラマメは、茎が倒れないようにするため、園芸支柱と防虫テープで囲っておいたのを利用し、その上部に防虫ネットを被せて洗濯バサミでとめてみました。
これで直接の積雪はだいぶ防げます。





スナップエンドウは、ツルを這わすネットを利用して、それの周囲に防虫ネットを巻いて雪除けに。防虫ネットが足りなくなった部分は、ロールの黒マルチを切って継ぎ足しました。
防虫ネットが無くなってしまったので、キヌサヤは黒マルチだけで覆いとしました。
ネットに防虫ネットや黒マルチをとめるのに、洗濯バサミを使うと簡単に出来るとは。畑作業の必需品です。
作業時間は約2時間。冷たさで手先はほとんど感覚無く、雨具を着ていなかった下半身は濡れてしまい、しもやけのように。
積雪対策が終わったけれど、花が咲きそうな茎立菜を収穫しないとならないと思い、氷の塊と化した積もった雪を振り払いながら、花芽を摘んでいきました。

先週見つけた関東タンポポ
先週見つけた関東タンポポ
降雪が週末ファーマーの農作業可能な休日で良かった。



管理者 : Masa
このエントリーをはてなブックマークに追加

F210耕うん機に培土器(アタッチメント)を取り付け

培土器の導入まで

オカネツ工業社製培土器
オカネツ工業社製培土器

夏野菜の準備でこれから畝を作っていくにあたり、少しでもその時間を減らして除草の時間に充てたいと思い、手作業での畝立てから培土器を使うことに決めたのです。
健康のためには、鍬やジョレンを使って畝作りをするほうが望ましいのですが。
オカネツ工業社製培土器
オカネツ工業社製培土器

F210耕うん機はホンダ社製なので、専用の培土アタッチメントが良いのでしょうが、もっと手軽にと思って探すことに。すると、オカネツ工業社製の電動耕うん機に使用する培土器が、取り付け出来そうな感じだったので購入してみました。
オカネツ工業社製培土器
オカネツ工業社製培土器

抵抗棒と穴の隙間
抵抗棒と穴の隙間
ピンを紛失したので純正品を購入
ピンを紛失したので純正品を購入

抵抗棒と穴の隙間
抵抗棒と穴の隙間
取り付け方は抵抗棒と取り換えるだけで簡単。培土器の軸棒の直径が2、3mmほど小さいので、F210耕うん機に取り付けると少しぐらつきます。しかし、現在付いている抵抗棒も、はめる穴に対して1、2mmほど小さいので、ぐらつきますから構いません。 
F210に培土器を取り付けた状態
F210に培土器を取り付けた状態


畝立て





さて、畝を立ててみます。
あらかじめ畝立てする場所を良く耕しておきます。そうしないと、土寄せする際の力が均等にならずに、培土器の動きが不安定になってしまい、畝が曲がって出来上がってしまいます。
F210に培土器を取り付けて畝立て
F210に培土器を取り付けて畝立て

耕うん機の速度は低速で動かします。
培土器での畝立て
培土器での畝立て

ふかふかの土だと、培土器がスムーズに動いていきます。
培土器で作った畝と畝との間は狭い
培土器で作った畝と畝との間は狭い
培土器でざっと作った畝
培土器でざっと作った畝

畝と畝の間は20cmほどにしかならないので、フィールドカートなどで座ったまま畝と畝の間を移動するにはちょっと幅が狭いです。
幅を広くとるにはどうすれば良いか考えてみたところ、一度畝立てした片側を壊して平地にして幅をとって、改めて畝を立てていくとなんとかなります。





培土器で畝立てず

培土器は畝間を広く取るのに工夫する手間があるので、溝を作って手作業で畝を立てる方法に変更しました。
培土器で畝立てをしないで、培土器で溝を作ってそこを畝とするのです。
溝を作ってダンシャクの植え付け
溝を作ってダンシャクの植え付け

ジャガイモの植え付けなら、培土器で作った溝に種イモを置いて、種イモと種イモの間に元肥を置いて、ジョレンで土を被せて畝とします。今までは鍬かジョレンで溝を作っていたのですが、培土器でだいぶ楽に。 
キクイモ(種イモ)
キクイモ(種イモ)
キクイモの植え付けも同様にしてみると、とても楽で作業時間の短縮となりました。
キクイモは収穫もれの掘り残しが多くて、耕している時と培土器で溝を作っているときにだいぶ出てきたので、種イモとして使ってみました。
出てきたキクイモ(種イモに)
キクイモはもう芽と根が出始めた状態(3月21日現在)。

保存しておいたヤーコン(種イモ)
保存しておいたヤーコン(種イモ)

種イモを埋めて保存しておいたヤーコンも同様に植え付けましたが、種イモの数に対して植え付け場所が少なくて、種イモ間がだいぶ密になってしまいました。どうなることやら。




管理者 : Masa
このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年3月22日日曜日

福島県の焼き物5「福良焼2」

前回、福島県の焼き物4「長沼焼・勢至堂焼・福良焼」で、福良焼について要約で掲載していますが、今回は詳しく歴史から追っていきます。

福良焼の歴史

まずは、福良焼に大きく関わる会津本郷焼の創始者である佐藤伊兵衛氏について。
同氏は安永6年(1777)、会津で染付茶碗を生産します。
しかし、肥前系の磁器の出来には遠く及ばないので、藩の援助のもと、寛政9年(1797)に36歳で焼き物の産地に技術の視察を兼ねた旅に出ました。
江戸、志戸呂焼、瀬戸焼、織部焼、常滑焼、美濃焼、信楽焼、京焼などを経て肥前有田に入ります。
有田では技術の流出に厳しい取り締まりをしていたので、万全の態勢で潜入したようです。
ここで、土(陶土)ではなく白石(陶石)を砕き、粉にして磁器を焼いていることなどを知ります。
さらに、長崎、小倉、下関、萩焼、備前焼などを見て回り、大阪、京都楽焼で修業し、江戸を経て、会津に寛政10年(1798)帰国(帰藩)しました。

当時は自分で歩くか駕籠(かご)か馬、もしくは船の移動手段しか無いですから、かなりハードスケジュールだったと思います。

さて、寛政11年(1799)、佐藤伊兵衛氏は白磁を焼き始め、翌年、肥前磁器風の丸窯を築いて技術を取り入れ、白磁焼成に成功しています。

福良焼の直接的な出来事として文化元年(1804)、陸奥国会津藩旧安積郡福良村、現在の郡山市湖南町福良において、福良焼の創始者の長谷川兵夫(兵部)氏が誕生します。
文政4年(1821)には長谷川兵夫氏の子、福良焼二代目になる酒造氏が誕生。後の清吾氏です。

文政11年(1828)、長谷川兵夫氏が湖南町福良の鶴山で(陶器を)焼き始め、天保元年(1830)には、佐藤伊兵衛氏に弟子入りします。天保5年(1834)には、造酒氏も弟子入りします。

天保10年(1839)、会津藩主松平容保の用命で新生瀬戸焼(白磁の染付)の生産が許可されたことから、磁器の福良焼の生産が始まります。それを作るための磁土は、旧岩瀬郡長沼村勢至堂、現在の須賀川市勢至堂から採取されています。勢至堂焼と一緒です。

天保11年(1840)、長谷川父子は常陸国松岡藩(現在の茨城県高萩市)と大堀相馬焼の福島県相馬に修行に出ます。
生産が許可されてからも修業に出ていることから、なかなか上手く焼けなかったのか、それとも技術向上のためでしょうか。
しかし、相馬焼は陶器だけなので、そこから何か得る技術があったのだと思われます。青磁色の独特な貫入(ヒビ)の様子ですかね。

弘化元年(1844)に父子は地元福良村に戻りました。
その後、三代村の唐沢で良質の陶土(磁土)を発見して、それまでの勢至堂のものと調合した結果、ついに白磁生産を成功させます。そして、造酒氏は清吾と改名します。

弘化3年(1846)、勢至堂焼の創始者となる二瓶豊作氏が同じ福良村にて誕生します。
勢至堂焼についてはこちらから。

安政6年(1859)には福良焼の窯が5基築かれ、瀬戸屋(稼業として焼き物に関わる家)は13戸にもなっています。

福良焼のことではないですが、文久3年(1863)会津藩士である絵師の斎藤伊織が会津本郷焼の絵付を指導して、画風を一変させているとのことです。


どのように一変させたのか気になります。これは、当時の会津本郷焼の鑑定に重要なことですので、後日調べてみましょう。
福良焼にも影響があったのではないでしょうか。

そして幕末

慶応4年・明治元年(1868)には福良焼4代目となる長谷川久吾氏が誕生しています。

戊辰戦争

慶応4年・明治元年(1868)~ 明治2年(1869)に新政府軍(明治政府)と旧徳川幕府勢・奥羽越列藩同盟の戦いにより会津は戦場となりましたが、福良は戦火に遇わなかったようです。しかし、士分(武士の身分)なので会津藩兵として戦いに出て、窯業は一時休止となります。

戊辰戦争の後、明治の初めには、県から生産年賦金(分割して毎年の支払い)を受けて16の民間の窯が復興しました。

明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、長沼焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。

その後、長沼焼、勢至堂焼と同様ですがこちらは早く、大正5年(1916)に三代目の栄次氏が亡くなった後、廃窯となっています。





「福良窯名陶集」からみる作風
染付
上野寿郎著の「福良窯」掲載のものから、まず染付の作風をみると、「牡丹獅子文皿」(径28.5cm)、「雲龍文皿」(径25.5cm)などは、現在において伊万里焼(古伊万里)として流通しているのは間違いないという立派な絵付けです。

「香立て」は、蚕養焼で取り上げた唐草文蕎麦猪口の絵付けで、描かれた葉はデフォルメというか一筆書きで元の葉の形状を失っていて蝶のようにも見えるものです。この文様が蚕養焼の特徴の一つと考えられていますが、ここに福良焼でも出てきました。切込焼でも同様に存在します。こちらはこれよりも絵付が上手ですが。
画像は「蔦唐草文すず徳利」です。蚕養焼かもしれません。器形が下蕪形(下膨れ)なので、明治前期の作です。

福良焼?会津本郷焼系蔦唐草文すず徳利
福良焼?会津本郷焼系 蔦唐草文すず徳利


明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に福良焼でも使われ、絵付けは色鮮やかなヨーロッパの青色となりました。
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)

52頁掲載の「山水文隅切皿 二瓶嘉右ヱ門家蔵」(径29cm、高さ4cm)は、こちらの画像のものとほぼ同じ絵付です。
ベロ藍は鮮やかというまで達しない、落ち着いた色合いです。






福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
本に裏面の掲載が無いので比較が出来ないのですが、こちらには少し稚拙な「玩」の文字があります。この文字は、渡来系陶工の銘款を表しているとの記載がある書物があり、伊万里焼に書かれているようです。このことから、「玩」を書くのは伊万里焼の模倣であって、特に意味をなさないのではないかと思っています。長沼焼のページでも紹介しています。

福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
伊万里焼(古伊万里)とされている角皿で特に「玩」を多く見かけます。そして絵付けとベロ藍の発色が上記のものとほとんど似ていますので、以下の鉢も含めて産地については今後の課題とします。

福良焼? 染付日回文鉢
福良焼? 染付日回文鉢
64頁掲載の「日回文鉢 西田家蔵」(径24cm、高さ4cm)は、これも伊万里焼(古伊万里)としてかなり流通しているもので、この画像のものとほぼ同じ絵付けです。ベロ藍の発色がとても鮮やかです。

福良焼? 染付日回文鉢の側面
福良焼? 染付日回文鉢の側面
ちなみに、この染付の日回文鉢にある外面文様と内面に型紙摺絵の牡丹文を使った鉢が、現代の美濃焼で福良焼の写しとして復刻されています。






印判(型紙摺絵・銅板転写)

型紙摺絵では会津本郷系独特な型紙のものもありますが、肥前系のものとよく似ています。
徳利は独特なものがほとんどで、口造りも独特です。

69頁掲載の「摺絵蛸唐草文すず徳利」(径15cm、高さ25cm)は、型紙摺絵と器形がこの画像のものとほぼ同一です。器形は掲載のほうが肩の張りがややあるかもしれませんが。

福良焼?会津本郷焼系 摺絵蛸唐草文すず徳利
福良焼?会津本郷焼系 摺絵蛸唐草文すず徳利
まだ掲載していない磁器製品がありますので、今後、このページに画像を追加していきます。


2019年11月に福良焼を見てきました
大安場史跡公園
大安場古墳がある大安場史跡公園
郡山市の大安場史跡公園ガイダンス施設で開催されていた、第2回企画展「湖南町の歴史」で、福良焼が展示されているとのことなので見に行ってきました。
実物を見ると、だいたい思っていたとおりの絵付け・印判模様と色調でした。
蕎麦猪口は底部が見られなかったのが残念でしたけど。
福良焼?会津本郷系 蕎麦猪口
福良焼?会津本郷系 蕎麦猪口


この蕎麦猪口は蚕養(こがい)焼のページで蚕養焼のものと紹介していますが、展示されていた蕎麦猪口はこの文様構成でした。

他の遺物もじっくりと見た感想として、実物が間近に見られるなど展示方法がとても工夫されていて素晴らしかったです。




参考・引用文献
 : 上野寿郎 1983『福良窯』, 歴史春秋社
 : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
 : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
 : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
 : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
 : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業

管理者 : Masa
このエントリーをはてなブックマークに追加

人気の投稿