2016年12月25日日曜日

イチゴの植え替え4

一つのエリアが終了に

継続中ではあるが

クリスマスですが農作業。今日の農作業が未来に繋がります。
谷津に近いエリアのイチゴの植え替えが終わったことをお知らせする日がやっと来ました。

今日の発見

たまに土をいじっていると、土器・陶磁器等のかけらが出てきます。今回は約1cm四方の小さな磁器のかけらです。型紙摺りで文様は微塵唐草です。産地ですが、物が小さいのでかなりの推定になりますが、愛知県の美濃焼だと思われます。時代は明治時代時代ですね。小皿かお茶碗でしょうか。
磁器片発見
磁器片発見
写真撮影をした後にイチゴに夢中になって、磁器片は土に混ざって所在が分からなくなりました。本来ならば、谷津の草むらに置いて再び眠りについてもらうのですが。




一区切り

さて、畝の長さが約10mのものを7畝作れました。スギナとハマスゲ等を除去しながらだったので、だいぶ時間がかかってしまいましたが、とりあえず終わりです。
イチゴの畝
7畝作れました

引き続き別のエリア開始

10月に2畝作ってあったその隣の植え替えを開始しました。
イチゴの紅葉
イチゴの紅葉

こちらはスギナよりもハマスゲが多く、さらに多いのはカタバミです。カタバミの根はイチゴの根と絡み合って、ほぐし取るのに手間がかかってなかなか作業が進みません。根がイチゴの根と似ているのも困りものです。ちょっとでも根が残っていると繁殖してしまうので地道にやるしかないですね。
そういえば、カタバミは家紋に使われていますよね。カタバミは繁殖力が強いからそれにあやかって子孫繁栄を願ってのことだと、昔聞いたことがあるのですが。実際にカタバミに接してみると頷けます。カタバミの写真を撮るのを忘れましたので次回に。
1畝出来て先が見えました。残りはあと3畝ですね。 
イチゴの植え替え継続
イチゴの植え替え継続

年内はあと1日だけ農作業が出来そうです。








イチゴの植え替えの続きはこちらから。
前回のイチゴの植え替えはこちらからどうぞ。

管理者 : Masa
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2016年12月18日日曜日

イチゴの植え替え3

まだイチゴの植え替え

イチゴの植え替え継続中

先週はアップをしていないですが、1日だけイチゴの植え替えをやっています。今日は昨日に引き続き作業です。最高気温14度、本日も晴れて日なたでの作業は汗をかくほど。ちょうど良い北東風が吹いています。
谷津の林と青空
谷津の林と青空

畑の降霜本番

霜で浮いたイチゴの株
霜で浮いたイチゴの株
ここ数日の朝の寒さで霜がしっかりと降りるようになり、植え替えをしたイチゴの株が土から1cmほど浮いてしまいました。まだ根が張らないので霜で株が上へと持ち上げられ、それを繰り返して浮いてしまうのです。
この場合、株の根元を押さえると株は土に戻りますので、そのあと少しの土を株に寄せて、周囲の土を転圧して霜で浮きづらくします。これからはこの作業の繰り返しで、イチゴの株は思いのほか丈夫ですが、霜で浮いたままにならないように注意していきます。これを怠ると根が露出して枯れてしまい、せっかく植え替えた意味が無くなってしまいますので。 
株の根元を押さえる
株の根元を押さえる

畑作業による腰痛

エンピで掘り起こしては、スギナとハマスゲを拾い上げるので腰が痛くなります。そんな時は、体勢を変えるのに他の畝の見回りです。
奈良産・熊本産のニンニクはとても順調に生育しています。雑草を抜いて、同時に土寄せ済みです。収穫まであと半年近く。長いなぁ。 
成長中のニンニク
成長中のニンニク

朝早くに来ていた畑仲間が先に帰るのでご挨拶。お子さんに「イチゴ狩り楽しみにしててねぇ~。」と。市販の物とは違う、露地栽培完熟イチゴは5月から収穫です。




越冬中の虫たち
さて、作業再開。掘削すると雑草のほかにミミズと越冬中のハンミョウ(虫)とカブトムシの幼虫が出てきちゃうので、それを拾っては別の場所に埋めてあげます。
カブトムシの幼虫はまとまって出てきて、たまに痛めてしまうのでかわいそうというか勿体ないというか。夏は畑以外どこも雑草で土が現れ難くいのですが、畑は除草してあるので土が現れていて、産卵し易いからかなぁと思ったりします。どうなのでしょう?
ほかには葉の陰に隠れている越冬中の小さなカタツムリの類がいますが、開口部を膜で覆って閉じています。乾燥を防いでいるのですね。すごい技。 
掘削中
掘削中

本日いよいよイチゴの植え付け

やっと1畝分の確保ができたので耕耘機でざっと耕します。ケイフンの元肥を施して、簡単に畝を作って植え付けです。
1畝に27株前後しか植え付けられないので、選別から外れたものは谷津で自然に生きる道を残してあげて、仕方なく放置です。
選別から外れたイチゴの株
選別から外れたイチゴの株

本日も仕上がりは日没直前になりました。
植え替えあと1日分
植え替えあと1日分

イチゴエリアの1つはあと1日で植え替えが終わります。ようやくここまで来ました。
もう1つのエリアは10月に2畝は植え替え済みで、あと4日間くらいの作業量で終わりそうです。 
イチゴの植え替えの続きはこちらから。
前回のイチゴの植え替えはこちらからどうぞ。







管理者 : Masa
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2016年12月11日日曜日

薩摩焼の窯場3・4

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野(よきの)系


近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。

鹿児島市内訪問時、大久保利通公の銅像。
鹿児島市内訪問時、大久保利通公の銅像。

薩摩焼の窯場3

龍門司系の窯場

龍門司系の窯場についてのお話です。

山元窯

寛文7年(1667)に現在の姶良市加治木町反土(たんど)に山元窯が開かれました。
窯跡は連房式の登り窯で、規模は長さ約14m、幅約2m。
製品は、灰白色の素地に褐釉を施釉した陶器の碗・皿等が主です。染付の磁器も出土していることから、磁器生産も試みていたことが判明しています。
重ね焼きには目積み(例:器どうしが溶着しないように耐火性の団子状の土等を挟む)の技法を用いています。
延宝4年(1676)には窯は終わりを迎えたと考えられ、龍門司に移っていきます。
なお、本格的な磁器生産に至らなかったと考えられているため、薩摩磁器系から外れているようです。

龍門司窯

享保3年(1718)頃、現在の姶良市加治木町小山田に窯が開かれたと考えられています。
窯は昭和28年(1953)まで使われていました。その連房式の登り窯が残されていまして、規模は長さ約20m、幅3.8mです。
製品は、山元窯に類似するものが焼かれていたと推測されていますが、重ね焼きには蛇の目釉剥ぎ技法がみられるのもがあります。蛇の目釉剥ぎは、器の内面を環状に釉薬が施釉されていない状態にしたものです。そこに高台付の器を重ねて焼いても、引っ付きにくい利点があります。
釉薬は、鮫肌釉・玉流し釉(黒釉にワラ灰釉を流し掛け)・三彩(銅緑釉・褐釉などを流し掛け)など多様です。また、1800年代頃から生産された器には「龍門司」銘などがみられるようです。

現在では、龍門司焼企業組合が「龍門司焼陶器祭」を開催し、龍門司焼を盛り上げています。




薩摩焼の窯場4

元立院系の窯場

元立院系の窯場についてのお話です。なお、元立院系は西餅田系とも呼ばれています。

元立院窯

寛文3年(1663)、現在の姶良市西餅田に小野元立によって窯が開かれたと伝えられていますが、窯跡本体は確認されていません。窯が廃絶したのは18世紀末頃と考えられています。その後は龍門司窯に移ったため、両窯跡の製品の区別が付きにくいものが多く、「加治木・姶良系陶器」と呼ばれています。
薩摩焼の窯場3で龍門司系の山元窯について紹介しましたが、山元窯と類似する例として以下引用です(頁数が入っていますが、このブログでは関係ありません)。

寛文八年(一六六八)銘の元立院窯の花瓶(三四頁)を見ると、器表面に轆轤目を残し、薄い褐釉を掛けている点は、同時期に操業していた山元窯の製品と共通します(三八頁)。「小野元立焼物弟子控書」(『研究』所収)によれば、山元碗右衛門は一時期元立院窯にいた可能性があり、また距離的にも近いので、両窯は密接な関係にあったと推測されます。しかしその一方、轆轤の回転方向は、山元窯が左回転主体であるのに対し、元立院窯は主に右回転と、技術系統的な違いも認められます。(渡辺芳郎 2003,p103)

お名前の「碗右衛門」さん、まさに焼き物の人ですね。

元立院窯の製品は陶器の皿や碗が主体で、灯明皿や灯明受け皿もあります。なお、染付磁器も焼かれていました。
釉薬の特徴として、灰釉と黒釉を二重掛けするものがあり、それを応用した蛇蝎(だかつ)釉はこの技法と深い関係があると考えられています。
道の駅いぶすき
南国ムード漂う「道の駅いぶすき」をドライブの途中に立ち寄り 

小松窯

元立院窯が開かれた後に、窯は姶良市船津に開かれていますが、窯跡本体は確認されていません。出土品は元立院窯で焼かれた物に類似した製品・窯道具が出土しています。

前回の薩摩焼についてはこちらから。
次回の薩摩焼についてはこちらからどうぞ。








参考文献 : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
     : 渡辺芳郎 2012「近世薩摩焼の生産と藩外流通」『江戸遺跡研究会会報 No.133』江戸遺跡研究会
管理者 : Masa
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2016年12月4日日曜日

イチゴの植え替え2

メインのイチゴの植え替え 

イチゴの子株(苗)

次々と通路と畝を掘り起こして、イチゴの古株とランナーから伸びた子株(苗)を掘り上げていきます。植わっている時の状態よりも、抜いた株を集めたほうが株の数を多く感じました。手箕(てみ)にすぐいっぱいになります。手箕とは画像のオレンジ色のプラスチック製の物です。安来節(島根県安来市の民謡)でのドジョウすくいに用いる竹製の物と同様なので、それをイメージしてください。イメージできない方は安来節をぜひご覧くださいませ。
畝と手箕
昨日作った畝と手箕

休憩も

掘っては株とスギナの根を拾い上げるので、腰が痛くなってきます。そんな時は他の畝の見回りをしてストレッチ代わりとします。
雪と霜に勝ったホウレンソウ
雪と霜に勝ったホウレンソウ

休憩終了

さて、昨日のお話のとおり、植え替え当初は全ての株を移植しようとしていたのですが、やはり数が多過ぎです。とてもとても小さい株は、スギナの根と一緒に残念ながら谷津の崖に落として、さようならです。チャンスがあればその場で根付く事もあるでしょう。

畝作り

2畝分の整理が終わったので新たな畝作りです。
まずは耕耘機で耕します。エンピを使ったことにより土がほぐれているので、耕耘機の刃がほぼすんなりと入っていきます。たまに土が堅めの所があったりした場合、刃が入りづらくて耕耘機が跳ねるので、その時は回転数を落としてゆっくりと耕します。 ざっと耕したら手仕事で畝作りです。
高畝にするので、少し鋤簾(ジョレン)で筋をつけてそこに元肥として鶏糞(ケイフン)を薄めに撒いていきます。ケイフンの下の土が少し見えるくらいに。
ケイフンはホームセンターで購入しているのですが、数年間使用していた物が無くなり、生産会社が代わって粒が小さい物になりました。以前のケイフンは生産者のホームページから情報が読み取れて良かったのですが…。
そして、ジョレンで土を盛り上げて高畝を作ります。高畝といっても高くて25cmくらいです。あまり高いと霜の影響で畝の側面の土が剥がれ落ちていってしまいますので。
軽く畝を成形して出来上がり。



植え付け

やっと子株の植え付けです。ここで仕方なく株の選別をしていきます。古株はやめて子株で根の張りが良く、クラウン(株の根元)が太めの物を選びました。ランナーから伸びた子株の2番目・3番目が良いと言われていますが、気にせずにいきます。
株間は20cm前後で、これは推奨される株間の半分以下ですが、株が小さいので平気です。
株の向きも気にしません。畑の畝なのでイチゴがなる方向など気にしない大ざっぱ農法です。注意するのは深く植えないことで、しかも浅く植えないこと。丁度良くクラウンが地上に出ているように。
植え付けたイチゴの子株
植え付けたイチゴの子株


水撒き

植え付け後には水を撒きますが、夜中に雨が降る確率が高い予報があるので今回は撒きません。後は、水を探して自分で根を張るようにするために水やりをせず、自然任せです。
3畝出来ました
昨日と今日で3畝出来ました

そして、これからは降霜に注意ですね。週半ばに寒気が下りてきて本格的な冬の到来です。しかし、まだまだ作業は続きます。農閑期は訪れません。
イチゴの植え替えの続きはこちらから。
この前のイチゴの植え替えはこちらからどうぞ。








管理者 : Masa
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2016年12月3日土曜日

イチゴの植え替え1

引き続き植え替え

12月になりましたが、まだイチゴ 

10月末から開始したイチゴの植え替え作業が継続中です。
たいていは10月で植え替えを終わらせて冬越しに備えるのですが、他の作業を並行して行っていたため、まだ終わっていないのです。 今年1月に植え替えをして成功したので大丈夫でしょう。ただし、降霜には注意が必要です。
増えたイチゴの子株
畝と通路の境が分からないほど増えたイチゴの子株


スコップorシャベル

今回はほとんどの畝を新しく作り直しています。
まずは、畝と畝の間の通路部分に根付いた子株を掘り起こします。これは結実(イチゴがなった)した後に親株からランナー経由で増えていった株です。うまく根付いたものは株が大きく根が張っています。
掘り起しには「剣先スコップ」を使用しますが、私はこれを「円匙(エンピ)」と呼んでいます。そして、手で持つ「シャベル」は「移植ゴテ」と呼びます。
円匙(エンピ)
スコップあるいは円匙(エンピ)
このスコップとシャベルの呼び方ですが、以前西日本に滞在していた時に、手で持つほうを「スコップ」、足を掛けて使用するほうを「シャベル」と呼び、私の認識とは違う呼び方をしていて驚いたことがあります。どうやら東日本と西日本では逆の呼び方になっていることが多いようです。しかし、日本工業規格(JIS)では西日本での呼び方が採用されているので、私の東日本的呼び方は正規ではないということになります。なんでこうなったのでしょうか?




やっかいなスギナ
さて、エンピ(この呼び名を使います)でのイチゴの子株の掘り起しと共に、雑草である農家の強敵のスギナも掘り起こします。胞子茎はツクシです。ツクシは春の訪れを感じられて好きなのですが、スギナの繁茂はイチゴを枯らすので徹底除去します。
この時期、スギナ(葉)はほとんどが枯れて、その細い葉が風に吹き飛ばされ、地上では存在が分からなくなっていますが、掘るとたくさんの根が出てきます。縦横に根が張っているのです。
スギナの根
スギナの根

この場所はスギナが特に多く、以前耕作していた方からスギナまで引き継いだ感じです。
スギナは酸性土壌を好みますから、その場所を引き継いだ当時、石灰をかなり多めに入れ、その後は石灰分が多い鶏糞の肥料で土壌改良を試みたのですが、スギナの減少は感じられませんでした。
ひたすら除去するのみですが、根の性質として引っ張ると切れ易いという、スギナにとっては生き残るための進化を遂げているので、なかなか除去が出来ません。
残った根は、耕運機で細切れになったものは春に芽吹いたら引っこ抜き、地下深くから芽吹いたものは、ひたすら引っ張って成長させないようにするしかないです。
「スギナ茶」が道の駅等で販売されていたりするので、利用価値はあるのですがね。

イチゴ子株の選別

子株(苗)の選別をしないで、小さいのも含めて全て移植しようと初めは思っていたのですが、2畝目を作った時点で大量の株を移植しきれないことが判明しました。
ひたすら掘る
ひたすら掘る

イチゴの植え替えの続きはこちらからどうぞ。








管理者 : Masa
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2016年11月28日月曜日

薩摩焼の窯場2

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野(よきの)系

近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。

苗代川系の窯場 

前回は竪野系の窯場についてのお話しでしたので、今回は苗代川系の窯場についてです。
慶長3年(1598)に現在の、いちき串木野市島平に朝鮮人陶工達が上陸し、その後、下名において単室登り窯の串木野窯を開いています。
慶長8年(1603)には、苗代川(鹿児島県日置郡下伊集院村に存在した大字名。現在は、日置市東市来町美山。)に移り住んだと伝えられています。
苗代川では、元屋敷窯、次に堂平(どびら)窯が開かかれています。

下の写真は苗代川の薩摩焼窯元、渡来陶工後裔の荒木陶窯の花瓶です。高さは約25cm。とても繊細な絵付けで見事です。
「苗代川焼」は荒木陶窯の登録商標ですが、苗代川焼伝統保存会の会員には商標の使用を無料にて許可しています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草
白薩摩 鶴首花瓶-秋草

元屋敷窯 

窯跡は単室の登り窯で、窯が開かれた年は不明ですが、慶長9~11年(1604~1606)年頃のようです。
製品は黒もんが主で白もんを僅かに焼いていたと考えられています。

堂平窯 

窯跡は単室の登り窯で、規模は長さ約30m、幅約1.2m。
焼かれていた陶器は、黒釉・褐釉の甕・壷・擂鉢(すりばち)等の大型日用品が主体で、甕・壷の厚みは薄くて、内面には整形時の当て具痕がみられます。また、白薩摩も焼かれていた可能性があります。
焼成の際、製品の重ね焼きで製品と製品が引っ付くのを防ぐために、二枚貝(サルボオ・ハイガイ・ハマグリ)等の貝を間に挟む特徴があります。なお、串木野窯跡でも同様な技法がみられます。
江戸時代後期には、色絵の陶器や磁器の生産が開始されていまして、後の金襴手製品に繋がっています。
なお、窯跡は南九州道建設に伴い移設保存(日置市東市来町美山1142)されていますので見ることができますね。


五本松窯 

寛文9年(1669)、鶴丸(鹿児島)城下に居住の朝鮮人達を苗代川に移住させたのに伴い、窯が開かれたと伝えられていますが、それより時代が下る窯のようです。
窯跡は単室の登り窯で陶器を焼いていて、規模は長さ約30m、幅約1m。
日置市東市来町美山498-2、500に所在。
重ね焼きの技法は「土目(器どうしが溶着しないように耐火性の団子状の土を挟む)」を用いています。

笠野原(かさんばい)窯 

宝永元年(1704)に苗代川の人々を現在の鹿屋市笠之原(かさのはら)町に移住させ、そしてその後、単室の登り窯の笠野原窯が開かれました。全て黒もんの日用品を焼いていたようです。

御定式(ごうじょうしき)窯 

県指定史跡の「美山薩摩焼窯」で連房式登り窯。
寛延年間(1748~1750)に築かれ、当初は御物窯と呼ばれていましたが、明和元年(1764)に御定式窯と改名され、明治元年(1868)に廃止されています。
製品は白薩摩や鉢・皿・碗・土瓶、染付の磁器製品も焼かれています。なお、染付磁器では顔料がコバルトのものがありますので、明治時代になっても窯が存続していたことを物語っていますね。

東・西打通(うつとうし)窯 

単室の登り窯で、御定式窯と同様に寛延年間に築かれています。
甕・土瓶・擂鉢等の日用品を焼いていました。

ウチコク窯 

時代が下って19世紀半ば、弘化3年(1846)の石碑が存在するのでその頃に築かれた窯で、連房式登窯です。東打通窯の隣に存在します。明治12年(1879)頃に役割を終えたと考えられています。
重ね焼きの技法は、「コマ(平らな小さい方形の陶板)」を器と器の間に挟み、器どうしが溶着しないようにしています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。

苗代川系では、現在も窯元が多く存在しています。窯元巡りなど良いですねぇ。

次回の薩摩焼についてはこちらから。
前回の薩摩焼についてはこちらからどうぞ。








参考文献 : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
     : 渡辺芳郎 2012「近世薩摩焼の生産と藩外流通」『江戸遺跡研究会会報 No.133』江戸遺跡研究会
管理者 : Masa
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2016年11月27日日曜日

秋ジャガイモの収穫

ニシユタカ・デジマ

雪のあと

8月末に種イモ(ニシユタカ・デジマ)を植え付けてから約三カ月経ちました。
霜が本格的に降りる前に秋ジャガイモを掘り上げようとしていたのですが、その前にが降って、さらには5cmほど積もってしまうという事態に。
東京(北の丸公園)視点では54年ぶりの降雪で、積雪は気象観測を始めた1875年以来初めてということでしたので、かなり珍しい気象事象が起きてしまいました。 
谷津の残雪
谷津の残雪
案の定、ジャガイモの地上部は積雪の影響で枯れるというより、組織がとろけた状態になっています。
雪の影響で枯れたジャガイモの地上部
雪の影響で枯れたジャガイモの地上部

しかし、今の時期ならまだ地中まで凍ることがないので、ジャガイモの可食部である茎起源の塊茎は問題無しです。

掘り上げの前に

茎がグニャグニャなので、手で引っ張れません。今回は先に茎をハサミで切断して収穫の効率アップを試みました。
ジャガイモの茎を切断
茎を切断
私のこれまでのジャガイモ栽培方法では、溝を浅めに掘り、畝の高さを極力低くして(平畝方法)追肥と同時に土寄せを行って、畝がその結果ある程度高めになっていました。

しかし、この畝の高さだと収穫時に少し地面を掘り下げることになり、ジャガイモを掘り上げるのに労力が掛かるのです。当地でのジャガイモ栽培は、霜が降りなくなった春先とお盆明けの夏に植え付ける二期作なので、特に春先に植え付けたジャガイモの収穫が夏で、作業中の暑さに堪えられず辟易したりします。
高畝
高畝
なので、今回は耕耘機で地面を耕してから元肥を施し、ふかふかの土で畝を高く作りそこに植え付けて、地面を掘らずに収穫出来るようにしてみました(高畝方法)。土寄せ用の土はあらかじめ畝を太目にして、本筋の脇に土が置いてあるような感じで仕上げました。



掘り上げ

さて、ジャガイモの掘り上げです。平畝に比べて高畝は掘り上げが楽ですねぇ。
雪の後なので、土に水分が多くその点では掘りづらいですが。
時間に余裕があるなら、土が乾いた状態で収穫をしましょう。乾いていた方がジャガイモに土が付かず綺麗に収穫出来ます。また、乾いていないと最大の問題点となる保存にも影響が出ます。
水分の付着は腐りやすくなるので要注意です。水分が付着する場合は、清潔なタオル等で水分と土を拭き取ります。

乾かすためでも日光には極力当てないようにしてください。ジャガイモが緑色になって、天然毒素のソラニンやチャコニンによる食中毒になりますので。
ちなみに芽も要注意です。調理時には完全に取り除きましょう。
掘り上げ中のジャガイモ
掘り上げ中のジャガイモ


ジャガイモ1株での収穫量
1株目で7個


大きいジャガイモ
大きい


ニシユタカとデジマは外見で見分けがほとんどつきません(個人の感想)。食べたら違いが分かるでしょう。
掘り上げ中、たまに種イモがそのまま残っています。腐ることもなく固いままで変色していないものもあり、間違えてこれを収穫しないように。イモから茎が伸びているものが種イモですので。また、種イモが腐っているのもあります。この腐ったものを出来たイモに付けないように。 
種イモが付いたまま
種イモが付いたまま


収穫量は植え付けた重量の約5倍ですかね。ダンシャクに比べると収穫量は少なめです。
三角鍬
三本鍬で掘り残しがあるか確認

ちなみにニシユタカは、「おでん・煮込み料理にぴったり」。デジマは「煮物・フライドポテトにぴったり」。ということで、これからの季節は煮物ですね。






管理者 : Masa
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2016年11月24日木曜日

薩摩焼

薩摩焼について

薩摩焼の定義

薩摩焼には、「金襴手薩摩」、「白薩摩」、「黒薩摩」などがあります。
そこで、「薩摩焼」とする焼き物については、渡辺芳郎氏が以下のように述べています。

 「このように、一口に「薩摩焼」といってもその内容はさまざまであり、その多彩さが薩摩焼の特色の一つとなっています。ですから製品の内容から薩摩焼を定義することはできません。ここでは、江戸時代については薩摩藩領(鹿児島県全域と宮崎県南部)で焼かれた陶磁器、近代については鹿児島県内で焼かれた陶磁器を、薩摩焼と呼びます。」(渡辺芳郎 2003, p.82)

本サイトにおいて薩摩焼の定義はこれに従っています。

鹿児島には都内から長距離ドライブで2度訪れているのですが、黒千代香(くろじょか。黒色陶器の伝統的な酒器で、胴部が偏平な土瓶。下の写真です。)とぐい呑みで焼酎をいただき、つけ揚げ(さつま揚げの鹿児島での呼び名)とキビナゴの刺身等々食しました。
ぜひまた行きたいですね~。

下の写真の黒千代香は「黒茶家」と共箱に表記されています。こちらの表記もあります。また、平仮名で「くろぢょか」とも表記されます。「茶」と「千代香」の平仮名を考えると「じ」よりも「ぢ」のほうがしっくりくると思います。

黒茶家(くろぢょか)。龍門司焼(黒薩摩)。
黒茶家(くろぢょか)。龍門司焼(黒薩摩)。

窯業の始まり

島津家17代藩主の島津義弘(1535~1619。85歳。戦国時代、安土桃山時代、江戸時代と、ご長寿。)が、文禄・慶長の役(1592~1598)の慶長3年(1598)頃、約80人の朝鮮人陶業関係者を連れてきたことから始まっています。
朝鮮からの船は、現在の鹿児島市喜入前之浜町、串木野市島平、日置市東市来町神之川の3地点に漂着し、それぞれの場所で窯が築かれました。

窯場

・竪野系
・苗代川系
・龍門司系
・元立院系
・薩摩磁器系
・能野系
と近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統に分かれています。(2017.1.6加筆)

時期分け

おおむね3期に分けると薩摩焼の変遷を理解しやすいとの事で、短くまとめました。

第1期
慶長3年(1598)頃、窯の開始~1600年代後半(17世紀代後半)の安土桃山時代末~江戸時代前期。
茶道具の生産と販路拡大。

第2期
1700年代(18世紀代)の江戸時代中期。
白濁釉・黒釉を使用し、主に在地向けの生産。

第3期
1700年代末(18世紀代末)の江戸時代後期。
上絵付けの技法、磁器生産、製品の高級化、さらなる販路拡大。

そして、明治維新を経て海外への販路拡大へと続いていきます。



薩摩焼の窯場1

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野系

近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。(5系統から6系統に11.28修正。2017.1.6追記。)

竪野系の窯場

竪野系の窯は薩摩藩の藩窯(御用窯)、製品はいわゆる白薩摩とよばれる白色陶胎の陶器が主で、藩関係者用の製品を焼いていました。
窯は、慶長11年(1606)、現在の姶良市鍋倉に宇都窯が築かれました。窯跡は平成14年に県指定史跡になっています。窯を開いたのは朝鮮からの陶工で金海(キメ。日本名:星山仲次)であると伝えられ、市指定史跡である島津義弘居館跡(御屋地跡)の北西約300mに位置し、義弘好みの茶道具を焼いて(古帖佐焼)いました。

宇都窯

単室の登り窯で、1号窯が長さ約5.8m、2号窯が長さ約4.5m、3号窯が長さ約6.3mです。
現存する薩摩焼の窯では最古で、発掘調査により窯の形態から2期に分かれることが判明しています。
1期(古い方)の窯跡は、日本国内に類例のない特殊な構造となっていました。

御里窯

慶長12年(1607)島津義弘が、加治木城に入る予定を幕府に禁じられたため、現在の姶良市加治木町仮屋町に居館(加治木島津屋形跡。市指定史跡。)を定め、移転しています。
それに伴い金海も移り、居館の北西に御里窯(おさとがま。市指定史跡。)を開き茶入れを主に焼いています。いわゆる古薩摩の一部は、この御里窯で焼かれたと推定されています。
元和5年(1619)島津義弘が没します。

冷水窯

島津忠恒(後に家久と改名。初代薩摩藩主。島津義弘の子供)が鶴丸城(鹿児島城)に移り、冷水窯を開きます。
窯は長さ約14.5mで連房式登り窯でした。
発掘調査によって明らかになった主な製品は、茶道具・碗・皿・土瓶・仏具等ですが、型打ち成形により製作された、丁寧な作りのデザイン性が高い皿や鉢が注目されています。また、胎土は純白の白色土でした(2014)。
黒茶家の底部と蓋
黒茶家の底部と蓋

次回は苗代川系の窯です。こちらからどうぞ。








参考文献 : 調査課第一調査係 2014 「収蔵遺物保存活用化事業-竪野(冷水)窯跡の再整理を中心に-」『研究紀要・年報 縄文の森から 第7号』,鹿児島県立埋蔵文化財センター
     : 佐々木秀憲 2000 『産地別 すぐわかるやきものの見わけ方』, 株式会社東京美術
     : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
 参考H.P. : 姶良市デジタルミュージアム
管理者 : Masa
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