2016年11月28日月曜日

薩摩焼の窯場2

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野(よきの)系

近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。

苗代川系の窯場 

前回は竪野系の窯場についてのお話しでしたので、今回は苗代川系の窯場についてです。
慶長3年(1598)に現在の、いちき串木野市島平に朝鮮人陶工達が上陸し、その後、下名において単室登り窯の串木野窯を開いています。
慶長8年(1603)には、苗代川(鹿児島県日置郡下伊集院村に存在した大字名。現在は、日置市東市来町美山。)に移り住んだと伝えられています。
苗代川では、元屋敷窯、次に堂平(どびら)窯が開かかれています。

下の写真は苗代川の薩摩焼窯元、渡来陶工後裔の荒木陶窯の花瓶です。高さは約25cm。とても繊細な絵付けで見事です。
「苗代川焼」は荒木陶窯の登録商標ですが、苗代川焼伝統保存会の会員には商標の使用を無料にて許可しています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草
白薩摩 鶴首花瓶-秋草

元屋敷窯 

窯跡は単室の登り窯で、窯が開かれた年は不明ですが、慶長9~11年(1604~1606)年頃のようです。
製品は黒もんが主で白もんを僅かに焼いていたと考えられています。

堂平窯 

窯跡は単室の登り窯で、規模は長さ約30m、幅約1.2m。
焼かれていた陶器は、黒釉・褐釉の甕・壷・擂鉢(すりばち)等の大型日用品が主体で、甕・壷の厚みは薄くて、内面には整形時の当て具痕がみられます。また、白薩摩も焼かれていた可能性があります。
焼成の際、製品の重ね焼きで製品と製品が引っ付くのを防ぐために、二枚貝(サルボオ・ハイガイ・ハマグリ)等の貝を間に挟む特徴があります。なお、串木野窯跡でも同様な技法がみられます。
江戸時代後期には、色絵の陶器や磁器の生産が開始されていまして、後の金襴手製品に繋がっています。
なお、窯跡は南九州道建設に伴い移設保存(日置市東市来町美山1142)されていますので見ることができますね。


五本松窯 

寛文9年(1669)、鶴丸(鹿児島)城下に居住の朝鮮人達を苗代川に移住させたのに伴い、窯が開かれたと伝えられていますが、それより時代が下る窯のようです。
窯跡は単室の登り窯で陶器を焼いていて、規模は長さ約30m、幅約1m。
日置市東市来町美山498-2、500に所在。
重ね焼きの技法は「土目(器どうしが溶着しないように耐火性の団子状の土を挟む)」を用いています。

笠野原(かさんばい)窯 

宝永元年(1704)に苗代川の人々を現在の鹿屋市笠之原(かさのはら)町に移住させ、そしてその後、単室の登り窯の笠野原窯が開かれました。全て黒もんの日用品を焼いていたようです。

御定式(ごうじょうしき)窯 

県指定史跡の「美山薩摩焼窯」で連房式登り窯。
寛延年間(1748~1750)に築かれ、当初は御物窯と呼ばれていましたが、明和元年(1764)に御定式窯と改名され、明治元年(1868)に廃止されています。
製品は白薩摩や鉢・皿・碗・土瓶、染付の磁器製品も焼かれています。なお、染付磁器では顔料がコバルトのものがありますので、明治時代になっても窯が存続していたことを物語っていますね。

東・西打通(うつとうし)窯 

単室の登り窯で、御定式窯と同様に寛延年間に築かれています。
甕・土瓶・擂鉢等の日用品を焼いていました。

ウチコク窯 

時代が下って19世紀半ば、弘化3年(1846)の石碑が存在するのでその頃に築かれた窯で、連房式登窯です。東打通窯の隣に存在します。明治12年(1879)頃に役割を終えたと考えられています。
重ね焼きの技法は、「コマ(平らな小さい方形の陶板)」を器と器の間に挟み、器どうしが溶着しないようにしています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。

苗代川系では、現在も窯元が多く存在しています。窯元巡りなど良いですねぇ。

次回の薩摩焼についてはこちらから。
前回の薩摩焼についてはこちらからどうぞ。








参考文献 : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
     : 渡辺芳郎 2012「近世薩摩焼の生産と藩外流通」『江戸遺跡研究会会報 No.133』江戸遺跡研究会
管理者 : Masa
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2016年11月27日日曜日

秋ジャガイモの収穫

ニシユタカ・デジマ

雪のあと

8月末に種イモ(ニシユタカ・デジマ)を植え付けてから約三カ月経ちました。
霜が本格的に降りる前に秋ジャガイモを掘り上げようとしていたのですが、その前にが降って、さらには5cmほど積もってしまうという事態に。
東京(北の丸公園)視点では54年ぶりの降雪で、積雪は気象観測を始めた1875年以来初めてということでしたので、かなり珍しい気象事象が起きてしまいました。 
谷津の残雪
谷津の残雪
案の定、ジャガイモの地上部は積雪の影響で枯れるというより、組織がとろけた状態になっています。
雪の影響で枯れたジャガイモの地上部
雪の影響で枯れたジャガイモの地上部

しかし、今の時期ならまだ地中まで凍ることがないので、ジャガイモの可食部である茎起源の塊茎は問題無しです。

掘り上げの前に

茎がグニャグニャなので、手で引っ張れません。今回は先に茎をハサミで切断して収穫の効率アップを試みました。
ジャガイモの茎を切断
茎を切断
私のこれまでのジャガイモ栽培方法では、溝を浅めに掘り、畝の高さを極力低くして(平畝方法)追肥と同時に土寄せを行って、畝がその結果ある程度高めになっていました。

しかし、この畝の高さだと収穫時に少し地面を掘り下げることになり、ジャガイモを掘り上げるのに労力が掛かるのです。当地でのジャガイモ栽培は、霜が降りなくなった春先とお盆明けの夏に植え付ける二期作なので、特に春先に植え付けたジャガイモの収穫が夏で、作業中の暑さに堪えられず辟易したりします。
高畝
高畝
なので、今回は耕耘機で地面を耕してから元肥を施し、ふかふかの土で畝を高く作りそこに植え付けて、地面を掘らずに収穫出来るようにしてみました(高畝方法)。土寄せ用の土はあらかじめ畝を太目にして、本筋の脇に土が置いてあるような感じで仕上げました。



掘り上げ

さて、ジャガイモの掘り上げです。平畝に比べて高畝は掘り上げが楽ですねぇ。
雪の後なので、土に水分が多くその点では掘りづらいですが。
時間に余裕があるなら、土が乾いた状態で収穫をしましょう。乾いていた方がジャガイモに土が付かず綺麗に収穫出来ます。また、乾いていないと最大の問題点となる保存にも影響が出ます。
水分の付着は腐りやすくなるので要注意です。水分が付着する場合は、清潔なタオル等で水分と土を拭き取ります。

乾かすためでも日光には極力当てないようにしてください。ジャガイモが緑色になって、天然毒素のソラニンやチャコニンによる食中毒になりますので。
ちなみに芽も要注意です。調理時には完全に取り除きましょう。
掘り上げ中のジャガイモ
掘り上げ中のジャガイモ


ジャガイモ1株での収穫量
1株目で7個


大きいジャガイモ
大きい


ニシユタカとデジマは外見で見分けがほとんどつきません(個人の感想)。食べたら違いが分かるでしょう。
掘り上げ中、たまに種イモがそのまま残っています。腐ることもなく固いままで変色していないものもあり、間違えてこれを収穫しないように。イモから茎が伸びているものが種イモですので。また、種イモが腐っているのもあります。この腐ったものを出来たイモに付けないように。 
種イモが付いたまま
種イモが付いたまま


収穫量は植え付けた重量の約5倍ですかね。ダンシャクに比べると収穫量は少なめです。
三角鍬
三本鍬で掘り残しがあるか確認

ちなみにニシユタカは、「おでん・煮込み料理にぴったり」。デジマは「煮物・フライドポテトにぴったり」。ということで、これからの季節は煮物ですね。






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2016年11月24日木曜日

薩摩焼

薩摩焼について

薩摩焼の定義

薩摩焼には、「金襴手薩摩」、「白薩摩」、「黒薩摩」などがあります。
そこで、「薩摩焼」とする焼き物については、渡辺芳郎氏が以下のように述べています。

 「このように、一口に「薩摩焼」といってもその内容はさまざまであり、その多彩さが薩摩焼の特色の一つとなっています。ですから製品の内容から薩摩焼を定義することはできません。ここでは、江戸時代については薩摩藩領(鹿児島県全域と宮崎県南部)で焼かれた陶磁器、近代については鹿児島県内で焼かれた陶磁器を、薩摩焼と呼びます。」(渡辺芳郎 2003, p.82)

本サイトにおいて薩摩焼の定義はこれに従っています。

鹿児島には都内から長距離ドライブで2度訪れているのですが、黒千代香(くろじょか。黒色陶器の伝統的な酒器で、胴部が偏平な土瓶。下の写真です。)とぐい呑みで焼酎をいただき、つけ揚げ(さつま揚げの鹿児島での呼び名)とキビナゴの刺身等々食しました。
ぜひまた行きたいですね~。

下の写真の黒千代香は「黒茶家」と共箱に表記されています。こちらの表記もあります。また、平仮名で「くろぢょか」とも表記されます。「茶」と「千代香」の平仮名を考えると「じ」よりも「ぢ」のほうがしっくりくると思います。

黒茶家(くろぢょか)。龍門司焼(黒薩摩)。
黒茶家(くろぢょか)。龍門司焼(黒薩摩)。

窯業の始まり

島津家17代藩主の島津義弘(1535~1619。85歳。戦国時代、安土桃山時代、江戸時代と、ご長寿。)が、文禄・慶長の役(1592~1598)の慶長3年(1598)頃、約80人の朝鮮人陶業関係者を連れてきたことから始まっています。
朝鮮からの船は、現在の鹿児島市喜入前之浜町、串木野市島平、日置市東市来町神之川の3地点に漂着し、それぞれの場所で窯が築かれました。

窯場

・竪野系
・苗代川系
・龍門司系
・元立院系
・薩摩磁器系
・能野系
と近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統に分かれています。(2017.1.6加筆)

時期分け

おおむね3期に分けると薩摩焼の変遷を理解しやすいとの事で、短くまとめました。

第1期
慶長3年(1598)頃、窯の開始~1600年代後半(17世紀代後半)の安土桃山時代末~江戸時代前期。
茶道具の生産と販路拡大。

第2期
1700年代(18世紀代)の江戸時代中期。
白濁釉・黒釉を使用し、主に在地向けの生産。

第3期
1700年代末(18世紀代末)の江戸時代後期。
上絵付けの技法、磁器生産、製品の高級化、さらなる販路拡大。

そして、明治維新を経て海外への販路拡大へと続いていきます。



薩摩焼の窯場1

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野系

近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。(5系統から6系統に11.28修正。2017.1.6追記。)

竪野系の窯場

竪野系の窯は薩摩藩の藩窯(御用窯)、製品はいわゆる白薩摩とよばれる白色陶胎の陶器が主で、藩関係者用の製品を焼いていました。
窯は、慶長11年(1606)、現在の姶良市鍋倉に宇都窯が築かれました。窯跡は平成14年に県指定史跡になっています。窯を開いたのは朝鮮からの陶工で金海(キメ。日本名:星山仲次)であると伝えられ、市指定史跡である島津義弘居館跡(御屋地跡)の北西約300mに位置し、義弘好みの茶道具を焼いて(古帖佐焼)いました。

宇都窯

単室の登り窯で、1号窯が長さ約5.8m、2号窯が長さ約4.5m、3号窯が長さ約6.3mです。
現存する薩摩焼の窯では最古で、発掘調査により窯の形態から2期に分かれることが判明しています。
1期(古い方)の窯跡は、日本国内に類例のない特殊な構造となっていました。

御里窯

慶長12年(1607)島津義弘が、加治木城に入る予定を幕府に禁じられたため、現在の姶良市加治木町仮屋町に居館(加治木島津屋形跡。市指定史跡。)を定め、移転しています。
それに伴い金海も移り、居館の北西に御里窯(おさとがま。市指定史跡。)を開き茶入れを主に焼いています。いわゆる古薩摩の一部は、この御里窯で焼かれたと推定されています。
元和5年(1619)島津義弘が没します。

冷水窯

島津忠恒(後に家久と改名。初代薩摩藩主。島津義弘の子供)が鶴丸城(鹿児島城)に移り、冷水窯を開きます。
窯は長さ約14.5mで連房式登り窯でした。
発掘調査によって明らかになった主な製品は、茶道具・碗・皿・土瓶・仏具等ですが、型打ち成形により製作された、丁寧な作りのデザイン性が高い皿や鉢が注目されています。また、胎土は純白の白色土でした(2014)。
黒茶家の底部と蓋
黒茶家の底部と蓋

次回は苗代川系の窯です。こちらからどうぞ。








参考文献 : 調査課第一調査係 2014 「収蔵遺物保存活用化事業-竪野(冷水)窯跡の再整理を中心に-」『研究紀要・年報 縄文の森から 第7号』,鹿児島県立埋蔵文化財センター
     : 佐々木秀憲 2000 『産地別 すぐわかるやきものの見わけ方』, 株式会社東京美術
     : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
 参考H.P. : 姶良市デジタルミュージアム
管理者 : Masa
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2016年11月20日日曜日

ハヤトウリをたくさん収穫

ハヤトウリの収穫ラスト

ハヤトウリ

ハヤトウリは、畑地が住まいの周辺にない人は知らない人が多いのではないでしょうか。
スーパーマーケットや八百屋さんではレギュラー品としてほぼ置いていないですしね。販売元としては、農産物直売所や道の駅。あとは、畑で野菜作りをしている人から貰ったりするのが入手方法でしょう。
ちなみに、東京都で道の駅は「八王子滝山」一カ所だけしかありません。何度も訪れましたが、ハヤトウリが出回る時期には訪れていないので、販売しているかは分かりません。しかし先日、川越市のJA農産物直売所を訪れた時に見たら販売していました。他の直売所でもありましたので、意外と販売しているのかもしれません。 
収穫したハヤトウリ
収穫したハヤトウリ。写真上方左側の褐色に変色は、軽傷の霜焼け状態。

ハヤトウリの植え付けから

ハヤトウリはウリ科の植物で、産地は熱帯アメリカです。
緑色種と白色種があります。
植え付けでの種はハヤトウリ1個をそのまま使います。昨年秋に収穫したハヤトウリを、新聞紙に巻いて凍みない場所で保管しておきます。あまり暖か過ぎると、植え付け時期より早く根と芽が出てしまうので要注意。出てしまった場合でも、霜が降りなくなるまでは植え付けを待ちましょう。霜・低温に弱いので枯れてしまいます。
植え付ける前に堆肥等を入れて土づくりをしたら良いと思いますが、今回は無肥料で行いました。植え付ける場所(谷津)が落ち葉等で自然に肥えていて、ミミズたっぷりの土壌なのです。 
植え付けは、ハヤトウリ1個を何も加工せずに横にして半分埋め、半分を地上に出しておきます。実の下方が深くえぐれていますので、それが地面に接するように植えると良いです。根や葉が出ている場合も根を下にして、上記のように植えつけます(写真は来季掲載します)。
そして今回は緑色種(中間種?)を5個植えつけましたが、2個(2株)は植え付け後に成長まで至らず、枯れてしまいました。これは種の保管が良くなかった事に原因があります。少し寒さにあたってしまったようで、元々弱かった種が駄目になりました。

ハヤトウリの成長

暖かくなると成長が加速しツルが伸びていきます。ここで支柱を立てますが、太くて丈夫なものでないと、ハヤトウリのツル・実の重さに耐えられなくて折れてしまうので注意が必要です。棚を組むなら頑丈に。
今回は棚を組まずに、支柱を1本だけ立てて上へツルを伸ばし、あとは勝手に地面や低木に這わせる方法をとりました。高木に這わせると収穫が大変になるので、脚立や伸縮棒付の網での収穫手段がない方は気を付けましょう。

ハヤトウリへの追肥

以前は夏に鶏フンの追肥を行っていたのですが、今回は行いませんでした。実験的自然農法(ほぼほったらかし)です。土壌が肥えているのもありますが。


ハヤトウリの夏から秋の様子
自然農法(ほぼほったらかし)で困ったことは、夏の雑草繁茂です。ツル性の「カナムグラ」がすごい勢いで成長するため、ハヤトウリが隠れてしまったのです。しかし、ハヤトウリも負けずに、葉を大きくしてカナムグラの上へ出てなんとかなりました。結局、除草をしなくても、ハヤトウリがほどほどに勝ったようです。ほどほどで良かったのかも。3株がとても良く成長して実を付けたら、1株あたり100個以上実をつけるので、諸々大変なことになったでしょうから。

ハヤトウリの実
成長途中のハヤトウリの実。写真右上はカナムグラの葉。

ハヤトウリの実は、葉や何かに接触し続けるとそこが褐色に変色しますので、見栄えが悪くなります。
ハヤトウリの雌花
ハヤトウリの雌花。

病害虫は全くと言っていいほどありませんでした。野ウサギ・ショウリョウバッタに葉を食べられることもなく順調でした。
谷津でカナムグラと共に
谷津でカナムグラと共に。ハヤトウリはどこ?

ハヤトウリの花
花はハヤトウリ。花の下はカナムグラの葉。写真左側の大きい葉がハヤトウリ。

ハヤトウリの収穫

露地栽培のキュウリなんかはとっくに終わってしまって、ほとんどの夏野菜が終わる頃に収穫を迎え始めます。気候が涼しくなったなぁと感じる秋の頃です。霜が降りるまでの一ヵ月間は収穫出来ます。
先週は霜が降りるだろうなと思い、小さいのまで収穫したのですが、霜の降り具合が軽く、地面に近い葉が少し痛んだだけでした。霜にあたった葉は黒褐色になって腐ったようになっていきます。実も同様です。
カナムグラに隠れているハヤトウリを探すために、カナムグラをかき分けるのですが、ハヤトウリを素手で採りたかったので手袋をしなかったら、手がカナムグラの鋸葉と細かいトゲですぐに手から出血でミミズ腫れです。甘く見ていました。カナムグラは手で引っ張っても切れない丈夫なツルですが、これも冬の訪れとともに枯れて、その存在が分からなくなるほどです。
今日の収穫は、カナムグラに隠れて前回までに見逃していたものを見つけられて、結構巨大化したものがありました。これは種用に保存しておきます。あとは、少し霜にあたって霜焼け状に褐色に変色し始めていたものがありましたが、軽傷なので問題なしです。

ハヤトウリのツル
柿の木に這ったカナムグラの上に這ったハヤトウリ。


霜にあたったハヤトウリの葉
霜にあたったハヤトウリの葉

ハヤトウリの食べ方

炒め物や煮物にも使いましたが、浅漬けが一番美味しいと思います。皮を厚く剥いて種を取り除き、薄くスライスして浅漬けの元や塩漬けで浅く(1日ほど)漬けます。シャキシャキっとした食感で。
来年も5株くらい作ろうかな。







管理者 : Masa
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2016年11月13日日曜日

小鹿田焼

小鹿田(おんた)焼 

所在地

窯は福岡県との県境に近い大分県日田市の最北部、日田市源栄町皿山に所在します。
公共交通機関でのアクセスは、JR日田彦山線(ひたひこさんせん)の筑前岩屋駅(福岡県東峰村)からは直線距離で東へ約3kmですが、県境山越えですので手段がかなり限られます。したがって、JR久大本線の日田駅から日田バス株式会社の小鹿田線「皿山」行きが便利だと思います。マイカーの場合はカーナビで最適なコースを選択ですが、スピードは法定速度を守り、特に注意して走りましょう。

歴史

江戸時代、日田市は豊後国の天領(幕府直轄領)と森藩に支配が分かれていました。
宝永2年(1705)の江戸時代中期に、筑前国福岡藩の中野焼(現在は、福岡県東峰村の小石原焼)から陶工が入り窯が開かれ、日常雑器が焼かれます。

小鹿田焼登窯
登窯

特徴

飛び鉋(とびかんな)と打刷毛目(うちはけめ)に代表される蹴轆轤(けろくろ)での技法があります。
釉薬は生掛けが基本となっています。
楕円形状に連続する飛び鉋
楕円形状に連続する飛び鉋


大浦川の水力で、原土(陶土)を唐臼(からうす)によって粉砕します。
大浦川
大浦川

小鹿田の里を訪れたときに暫くすると、その音が「コンッ」と山に響き渡るのを聞きました。現代社会ではなかなか聞くことが出来ない貴重な音です。
唐臼
唐臼


10軒の家族単位の窯元が全工程を手作業で行っており、男性一人が窯を伝承する習慣が残されています。
小鹿田焼窯元
窯元


底部の小鹿田銘
底部の小鹿田銘

平成13年の秋に愛知県豊田市の「豊田市民芸館」を訪れた時、偶然「第12回特別展 小鹿田焼-ONTAYAKI-」が開催されていました。


豊田市といえば「トヨタ」のお膝元で、自動車関連の産業によって南米から働きに来ている方々が多いことから、カラオケボックスではスペイン語やポルトガル語の歌が充実していました。
さて、特別展では「小鹿田古陶館」「小鹿田焼同業組合」「日本民藝館」と豊田市民芸館の合わせて114点の展示があり、古くは江戸時代の物、昭和29年(1954)バナード・リーチによる制作の鹿文大皿など、見ごたえたっぷりでした。
・国重要無形文化財(平成7年指定)
・残したい日本の音風景百選「小鹿田皿山の唐臼」(環境省認定)
・重要文化的景観「小鹿田焼の里」(文化庁選定。全国で50件。)

参考文献 : 豊田市民芸館 1999『第12回特別展 小鹿田焼』, 豊田市民芸館
             : 成美堂出版編集部 2004『やきものの事典』, 成美堂出版
参考H.P. : 一般社団法人 日田市観光協会、日田市







管理 : Masa
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2016年11月9日水曜日

食用菊がやっと開花

食用菊2種類

摘み取り

例年に比べて開花が遅れたため、今年は約2週間遅れて花の摘み取りです。
品種は紫色の「延命楽(別名、もってのほか)」と黄色の「阿房宮(あぼうきゅう)」です。「もってのほか」は山形県での呼び名で、新潟県では「かきのもと」ですが、うちの畑では「もってのほか」の呼び名を使っています。
阿房宮は青森県南部地方が有名な産地で、干し菊にもします。干し菊は見たことがありますが食したことはないです。どんな食感なのでしょう。うちの畑では「黄色の食用菊」と呼んでいます。
ちなみに、刺身のツマに付いてくる小さな黄色い食用菊「小菊」とは違います。宴会などで気になって刺身皿を見渡すと、この小菊を食す人はあまりいないようですが、私は好んで食べます。ちょっとした苦味が良いのです。小菊の成分にはコレステロール抑制効果もあるとのことです。

もってのほか
もってのほか

注意しなければならないのがアブラムシ。花が咲き始めると花柄(かへい)にたくさん付く場合があります。あまりにひどいのは摘み取らず、そのまま花としての命を全うさせてあげます。

黄色の食用菊
黄色の食用菊


食感

食べ方は酢漬けが一般的ですね。
エディブルフラワー(食用の花)はそんなに食べたことがないのですが、「もってのほか」は微妙なシャキシャキっとした食感からして、エディブルフラワー好きな人でなくても、好まれるのではないかと思います。


摘み取りまでの生育

毎年場所を変えて食用菊の株を植え替えています。今年は食用菊も降雨が多かった影響を受けて、株の2割ほどは育ちませんでした。
ほかに観賞用菊と併せて育てていたほうは、自然環境に任せていたので雑草に負け、ほとんど生育しませんでした。やはり手入れが必要なのです。

これから

花が終わる頃には葉が枯れるので、根本から幹を切ります。
株元を見ると、すでに小さな新芽が出てきていますので、しっかり冬越ししてもらいます。毎年、養生をしなくても冬越ししています。
来年はたくさん摘み取りが出来るようにがんばりましょう。







管理者 : Masa
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2016年11月8日火曜日

夏野菜の片づけ

霜が降りる前に 

今季最後のナスの収穫







ナスは長卵型の「千両2号」、中長の「どっさりなす 黒福」、「米ナス(ベイナス)」の三種類を育てていて、すべてホームセンター等で市販されている種を1袋ずつ使用しました。
発芽率は9割近かったですかね。育苗用ポリポットを使用しての育苗ですが、ナメクジの食害がひどかったので、畑に植え付けが出来たのはその7割ほどです。ポットはタイル張りの地面から約5cmの高さの台に置いていたのですが、それをよじ登ってナメクジが来ています。今年は降雨が多かったせいもあるのでしょうが。
その食害を確認してからは、ナメクジ忌避剤を台の周囲に撒いて対処です。それからは降雨で忌避剤が流れない限り問題なくなり、順調に生育していきました。

ナスは豊富な水分が必要のようです

以前、「ナスは水で育つって言うからねぇ」と畑の周囲を散歩していた方との会話の中でありました。そのとおり、今季は雨量が多かったおかげもあり、ナスの肌はツヤツヤしていて良かったです。しかし、日照が不足気味だったので育つのが遅く、なおかつ収穫量は例年の8割くらいだった気がします。

秋の深まりにつれ、次の野菜の準備

さて、夏の終わりに枝を切り戻して秋ナス用に育てていた株も含めて、秋の深まりとともに花は咲くけど実が育たなくなってきました。

小さいナスを僅かながら収穫して、ここで今までの収穫に感謝をしつつ株を抜いていきます。まだ枯れていないのに抜くのは可哀相ですが、次の冬・春野菜の準備に向けて仕方がありません。



トウガラシ(鷹の爪)

ナスの株の間にトウガラシを植えていたので、こちらはまだ実が赤色と青色混在で完熟していないので部分的に残しておきます。これも来週には収穫です。
トウガラシも上記のナスと同様に育苗中にナメクジにほとんど喰われてしまい、残った苗は僅か3株だけでした。生存率1/5です。
例年、トウガラシは自家製で足りていたのですが...。昨年たくさん収穫出来ているのでなんとかなるでしょう。
唐辛子(タカノツメ)
残った唐辛子(タカノツメ)

耕耘

このあとは耕耘機で耕していきます。
今までは耕す時に、米ヌカを撒いて土に混ぜ込むことをしていたのですが、米ヌカの在庫が無くなってしまったので混ぜられません。
米ヌカは人気なんですよね。玄米で頂いたお米を精米するために無人精米所へ行っても、自分の精米した分だけの米ヌカしかないことがほとんどです。それでは全然足りません。
ヌカ味噌に使うのか?やはり家庭菜園ですかね。タケノコの時期にはアク抜きに使うために取っておく人が多いし。
けど、取ってきたヌカの保存は要注意です。精米所でヌカに小さな蛾類が卵を産んでしまっているのを知らずにそのまま保管しておくと、びっくりするくらいの虫が湧くことがありますので。






管理者 : Masa
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