切込焼について1
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切込焼長皿 |
切込焼の存在を知ったのは、仙台市を訪問した平成3年(1991)に、刊行されて間もない『切込窯跡 近世磁器窯跡の調査』という発掘調査報告書に出会ったからです。
東北の地での近世磁器生産の様子が考古学的に解明された貴重な本でした。
そして最もお気に入りの焼き物となりました。
さて、骨董で「古伊万里・伊万里」とされているものが多い「切込焼」ですが、まずは切込焼の要点だけご紹介します。
切込焼という名称
現在は「きりごめやき」と呼ぶのが一般的です。
「きりこみやき」、「切米焼(きりこうべやき)」、江戸時代天保期あたりに存在した「切籠町」から「切籠焼(きりこ?うべ?やき」とも呼ばれていたとのことです。
切込焼の所在地
現在の宮城県加美郡加美町宮崎字切込に所在します。
加美町の西は、山形県尾花沢市に接しています。
加美町は、平成15年(2003)に宮崎町、中新田町、小野田町が合併して出来た町です。
江戸時代幕末までは陸奥国仙台藩で、伊達家の領地でした。
明治元年(1868)、仙台藩主伊達慶邦が薩摩長州軍に降伏して領地が没収され、同年(西暦では1869)、陸奥国から陸前国へ所属替えになっています。
それから廃藩置県で仙台県になるまでの約2年間は、再び仙台藩となっていました。
切込焼の始まり
切込焼の創業年については諸説ありますが、染付筒茶碗(仙台市博物館蔵)に記された記念銘が「天保6年(1835)」ですので、この頃だともいわれています。
切込焼の特徴
磁器を焼く際に通常は素焼きをしてから本焼きを行うのですが、素焼きを行わずに釉薬生掛けで焼成しているものが多いです。
ただし、素焼きが多くなっている(なっていった)時期があることが、出土品から分かっています。
「らっきょう徳利」と呼ばれている、独特な下膨れ器形の大徳利があります。
「切込三彩」と呼ばれている半磁器に、白の地色・茄子紺色・青緑の釉薬を掛けたものがあります。また、ニ彩もあり、白の地色を残していないものです。さらに、青緑釉だけのものもあります。
骨董界で大変人気のある切込焼の蕎麦猪口ですが、発掘調査報告書を見ると出土品の割合がかなり少ないです。蕎麦猪口は少量しか焼いていなかったのではないかと思われます。
それとも未発掘の窯で焼かれていたのでしょうか?
切込焼?須恵焼?
上の写真の染付長皿は、内面の中に松竹梅を配し、周囲には蔦(ツタ)唐草に花を描いています。
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切込焼長皿外面の文様 |
外面に描かれているのは簡略化された唐草文あるいは雲形文と思われる文様で、これが切込焼とされている長皿の多くに描かれています。
また、釉薬生掛けで焼成しているため、染付文様は見た目が柔らかい感じです。
作りは高台にシャープさが無く、緩やかになっています。
さて、ここで大いに気になることがあります。
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須恵焼と似ている切込焼長皿 藤巴 |
長皿のうちの一つは、現在の福岡県糟屋郡須恵町で焼かれていた「須恵焼」にとても似ているのです。
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切込焼の藤巴 |
この写真の推定切込焼染付長皿は、内面の中に福岡藩主黒田家の家紋である3房の藤の花を左巻きにする「藤巴」を描き、周囲には丸紋を描いています。
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切込焼長皿外面の文様 |
外面には例の文様が描かれていて、それを見ただけなら「切込焼だな。」と思ってしまうことでしょう。
切込焼を良くご存知の方なら、この写真の長皿を見てピンとくるはずです。
そう、『切込焼』(古賀 孝1974)に掲載されている「染付蛸唐草図鮎皿」と「染付笹図鮎皿」を合体させると、なんとこの推定切込焼染付長皿の文様構成になるのです。
ここで須恵町のホームページをご覧ください。
須恵焼の紹介でこの推定切込焼染付長皿と同じ文様構成のものが掲載されています。ホームページ上では外面の文様が確認できないのですが、『筑前の磁器 須恵焼』(須恵町教育委員会・須恵町立歴史民俗資料館1981)ではその文様が確認出来ます。同種です。
染付藤巴文角皿(黒田家紋)の謎
そこで、比較検討してみました。
・こちらの推定切込焼長皿の釉薬
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切込焼の釉薬 |
- 陶器に灰釉をどっぷりと掛けたみたいな釉薬溜まりがある。
- 窯内での燃料カスなどのゴミが内面に多量付着し、細かい黒点となって目立つ(汚れているみたいに見える)。
- 色調は灰色に近い白色(濁り)。
- 素焼きをしない生掛けなので、染付が流れているように線がぼやけて見える。
・須恵焼長皿の釉薬
- 写真では釉薬不明。
- 写真は白黒なのでなんとも言えないが、点状の不純物がみられる。他の掲載されているものに比べると器面に点状のものが多い気がする(下手(げて)?)。
- 色調は不明。
- 素焼きをして本焼きをしたかは写真から分からないが、やや染付が流れてぼやけている所がみられる。肥前系に近い産地で焼成生掛けをした?藩主の家紋入りの皿なのに?そんなことはないか。
・内面の文様
メインの藤巴文様に違いがありました。
ちなみに、藤巴は手描きではなく、型紙で摺られています。簡単に言い過ぎると「プリント」です。
推定切込焼長皿の藤には花軸がありますが、須恵焼掲載のものには花軸がありません。
黒田家の家紋には花軸があるのに、黒田家地元の須恵焼長皿の文様ではなぜ省いたのでしょうか。家紋に間違えがあったら大事になると思うのですが。おおらかだった?
あと、文様の作りは須恵焼掲載のほうが丁寧です。これは型紙職人の技の差によるものですが、もしかしたら産地の差・時期の差かもしれません。
産地の差なら、本場の筑前須江焼を真似たか?
時期の差なら、須恵焼掲載のもののほうが古い(仮定)から仕事が丁寧か?
また、型紙の置き方は、須恵焼掲載のものでは三つ葉の一方を皿に対して上にして正しく配置しています。
推定切込焼長皿では斜め、また、世間で切込焼とされているものでは上下逆のものもあります。
ただし、須恵焼の「染付藤巴文皿」「染付藤巴文鉢」をみると、藤巴紋が「正」位置ではないものがあります。こだわりはなかったようで、切込焼か須恵焼かの決め手から外します。
ちなみに、切込焼とされている長皿で藤巴があるもののうち、なかには藤の花房が右巻きの「右藤巴」があります。これは家紋としては黒田家のものではありません。
長皿に型紙を摺る時、裏表逆にしてしまったと考えられます。これはもう、須恵焼ではあり得ない事でしょう。お殿様の家紋を裏表逆なんて。
このことを考えると、その長皿は切込焼で良い可能性が高いですね。
また、大正時代の再興切込焼である「大正切込焼」では、丸皿の「染付巴藤図皿」に家紋ではないのですが、見込みに大きく藤巴が描かれています。この文様が使われたのは何か意味があるのでしょうか。
もしかしたら、この藤巴の長皿を参考にした?
それとも伊達家と何か関りがあった往時を偲んで?
・周囲の丸紋
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切込焼長皿の丸紋 |
こちらにも少し違いがありました。
長皿の左右短辺に描かれた丸紋が須恵焼では「七宝繋(しっぽうつなぎ)」なのですが、推定切込焼では「四方襷(よもだすき)」です。
『切込焼』(古賀 孝1974)掲載のものも「四方襷」です。
これは違いと言うより、絵付けのバリエーションの一つで良いかもしれません。
いや、違うのかも。これが切込焼と須恵焼の違いになるのか?
・底部
推定切込焼長皿の底部は、焼成時の変形を防ぐ「針支え」を行わなかったため、底が下方に垂れてしまっています。技術不足です。
須恵焼のほうは不明ですが、技術が高い肥前系磁器窯が近いので、底が垂れるような焼成はしないと思います。
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切込焼長皿の底部 |
今のところ、切込焼の2冊の発掘調査報告書では、1冊に染付長皿の破片の掲載が1点あるだけです。それはこのブログに掲載した長皿の絵付に類似していないので、何とも言えません。
須恵焼の窯跡の発掘調査は、平成18年度から21年度にかけて、遺跡の範囲確認調査として国・県の補助事業で行われています(山下啓之2010)。
ここでも長皿の掲載は無い(出土していない?)ので、比較検討が出来ません。
切込焼とされている長皿と須恵焼の長皿の類似もしくは一致(と言ってよいか)は偶然ではないと思います。
これは切込焼が、磁器生産が先行していた須恵焼をお手本にしたのではないでしょうか。
なお、福岡藩10代藩主の黒田斉清が享和元年(1803)に、須恵焼を幕府に献上し、他藩にも贈ったとのことです。
この時のものが、後にお手本となった可能性があるのかもしれません。
それとも工人が須恵焼から切込焼に来たのか?
文献、お墓を調べてみる必要がありますね。
須恵焼は切込焼に比べて知名度が低いと思います。もしかしたら伝世した年月の中で、外面の文様から、須恵焼の長皿が「幻の切込焼」になったものもあるでしょう。
切込焼か須恵焼かの鑑定は、胎土分析を行って調べるのが良いでしょうが、磁土は天草陶石など他地方産のものを混ぜる場合が多いですから、決め手となるのでしょうか。
さて、この推定切込焼長皿ですが、今の時点ではこれらを踏まえて切込焼で良いと考えています。
切込焼?平清水焼?
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切込焼角皿(手塩皿) |
この写真の角皿(手塩皿・隅切小皿)は成形が型起し(型に磁土を入れて器を作る)です。
成形はいびつで作りがよろしくないのですが、それに比べて胎土が良く、白みが強くなっていまして純白と言っても良いくらいです。
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切込焼角皿(手塩皿)の側面 |
この角皿を見た時に、当初は美濃焼かなぁと少しだけ思ったのですが
、美濃焼に比べて成形がいびつでかなりあまいところ(いびつ過ぎる)から、失礼ながら切込焼で良いかと思い直しました。
しかし、欠けている箇所から胎土を見ると、胎土が切込焼にしてみると白過ぎで良過ぎます。
胎土が良過ぎるし、生産性を向上させるための焼き方の一つである「重ね焼き」をした跡を示す内面の「目跡」が無いので献上品かと思えば、整形が良くないしで、どうもアンバランスな仕上がりなのです。
ただし、目跡が無いのは、生産性を向上させる前の段階の古い時期に焼かれたという可能性もあります。
2018.2.19追記
上記、目跡が無いのは、重ね焼きの最も上であったら目跡は付きませんね。
2018.4.5追記
文様からすると美濃焼かなぁ?しかし類似させた可能性があるし。
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切込焼角皿(手塩皿)の底部 |
そして鑑定の拠りどころになる切込焼窯跡の発掘調査報告書(宮城県文化財保護協会 1990)で調べてみました。
切込窯跡から出土した角皿(手塩皿)の数種類の文様とは違っていましたので、残念ながら何とも言えずとなっています。
切込焼であると断定出来なかったので、後述する山形県の平清水焼かも?とほんの少しだけ思っています
切込焼と周辺の他磁器窯との関係
また、切込焼と類似する製品を焼いていて密接な関係にあった山形県山形市平清水の「平清水焼(ひらしみずやき)」は、文化年間(1804~1817)に開窯されたといわれていますが、定かではありません。
切込焼で内面に笹文を描く玉縁口縁丸皿(なます皿)は、平清水焼のものと特に似ていて、同じ工人が描いたのでは?と思うほどです。
なお、この平清水焼は当初磁器を焼いていましたが、その後陶器に変わっていきます。
山形市岩波の「岩波焼」も同じような磁器を焼いているとのことです。
以下、直接引用です。
「弘化4(1847)年平清水に隣接する岩波の伊藤藤十郎は,切込で磁器を焼いていた肥前の陶工伊助を招き,磁器窯を新たに作りようやく成功した,と伝えられている(真壁豊威 1973),切込の隅切小皿や玉縁皿とほとんど違わぬ破片が岩波窯址から出土している事実は,この間の事情を物語るものであろう。」(芹沢長介 1978,切込西山磁器工房址の発掘調査※頁番号無し)
上記の参考元の書籍は、昭和48年(1973)に発行された山形市史編集委員会編、真壁豊威氏の『平清水焼物の歴史 . 村山地方の陶磁窯』の「平清水焼物の歴史」です。
秋田県秋田市寺内の「寺内焼」も気になるところです。寺内焼は天保5年(1834)から天保8年(1837)頃に陶器窯から磁器窯へと変わったと考えられています(秋田市教育委員会1993)。
この頃、切込焼を盛り上げた職人「山下吉蔵」が切込の地に来る前に寺内に滞在していました。寺内の磁器窯との関わりは不明ですが、興味を惹かれるところです。
山下吉蔵
仙台藩御用瀬戸場棟梁。寛政11年(1799)、現在の京都府京丹後市の生まれ。
天保11年(1840)頃に切込の地に入ったと推定されています。
嘉永2年(1849)銘の洞雲寺に奉納された切込焼の花生に、豪商との連名で「願主 丹後熊野郡 山下吉蔵」の名があることから、山下が関わった切込焼は、この頃盛期を迎えていたと考えられます。
元治元年(1864)没。
長谷川和吉
山下と共に寺内から切込の地に入ったと考えられています。
長谷川も奉納された花生に名があり、山下の隣に「秋田 長谷川和吉」と記されています。
そのほかに、染付蛸唐草文徳利の底部には「明治七年 (略) 長谷川五十九才造之」とあります。
明治7年(1874)の日本は文明開化期、切込焼は勢いを失っていったと考えられている頃です。
切込焼の終わり
切込焼でも他の藩窯と同様に、藩の庇護を失った明治維新後に衰退していきます。
明治12年(1879)の銘がある徳利が現存する切込焼存続の証で、その後数年で廃窯したと考えられています。
切込焼の再興
明治32年(1899)には再興を計画し、試作を行ったようですが、詳細は不明となっています。
大正切込焼
大正7年(1918)、再興を図るために補助金が交付され、大正9年(1920)には切込焼が再興されました「大正切込焼」。
高台には「岩窯」(いわよう)銘、「切込」と銘があるものもあります。
なんと白磁製の「キューピー人形」(高さ約16cm)も焼かれています。持っている方いらっしゃいませんかねぇ。
相当量の磁器を焼いたとのことですが、操業は軌道に乗らず、経営難でまもなく廃窯してしまいました。
現代の切込焼
昭和59年(1984)に、宮城県知事指定伝統的工芸品に指定されています。
平成2年(1990)には、旧宮崎町が町興しのため切込焼の復興を行いました。
現在は「三浦陶房」さんによって作陶されています。
切込焼の次回のお話は、胎土(磁土・陶石)、絵付けについてを予定しています。
2018.2.4追記
底面に「一山」銘がある長皿です。
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切込焼「一山」銘がある長皿 |
これは『切込焼 幻の美を求めて』(山野英雄2012)の109頁上段に掲載されている、「染付 一山 銘朝顔文湯呑み」「122b裏面」に「一山」があることから、切込焼の銘だと考えられます。
ただし、本に掲載されている銘とこちらの銘では書体が明らかに違います。こちらの銘を点数にして10点(達筆)だとすると、本に掲載されている銘は1点です(個人的感想)。
朝顔の絵も上手ではありません。
ということは、「一山」は陶工・絵付けを行った人を表すのではなく、窯の印でしょうか?
切込の里に残されている5基の窯跡は、「西山・中山・東山」と呼ばれていました。
窯跡は5基です。西山・中山・東山で「山」は3つですね。
「一山」は何を表しているのでしょう?今後の課題です。
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切込焼「一山」銘 |
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切込焼「一山」銘がある長皿 |
2018.4.5追記
『新説 切込焼』(宮城正俊1982)の118頁に作者銘として「一山」が出てきていますね。
こちらは「染付笹竹文燗徳利」の側面に「一 山 筆」と縦に描かれています。
「筆」とつくのはやはり一山氏が描いたということだと思われます。
しかし、長皿の銘とは筆跡が明らかに違いますので、別人が描いたのでしょう。
「一山」が姓だとすると、現在では宮城県内にほとんど一山姓の方はいらっしゃらなくて、青森県に多いそうですが、この姓を持つ方はかなり少数です。
いまのところ「一山」は画工の姓と考えています。
2019.8.28追記
2019年4月、宮城県加美郡加美町にある「切込焼記念館(加美町ふるさと陶芸館)」に切込焼を見に行ってきました。
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切込焼記念館 |
お目当ての長皿をみると側面に文様がありません!!切込焼の長皿の特徴としているあの文様が。これは検討を要します。長皿は入り口近くに展示してあったので、いきなりパンチをくらったような感じで…。
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切込焼の窯跡案内板 |
閉館時間が近かったため、優品の数々を足早に見なくてはいけなかったので、また訪れたいと思います。
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切込焼の窯跡が眠る |
切込焼の長皿を追加
そして、切込焼としての長皿を2枚追加します。
もちろん側面にはあの文様があります。
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切込焼、3房の藤の花を左巻きにする藤巴と蛸唐草文。 |
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側面のあの切込焼文様 |
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切込焼「蝶と丸紋」 |
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側面のあの切込焼文様 |
まだ長皿がありますが写真撮影をしていないので、掲載は後ほどになります。
参考・引用文献
: 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』,福島県陶業事業協同組合
: 秋田市教育委員会・秋田城跡発掘調査事務所 1993『寺内焼窯跡』
: 古賀 孝 1974『切込焼』, 株式会社雄山閣
: 須恵町教育委員会・須恵町立歴史民俗資料館 1981『筑前の磁器 須恵焼』
: 芹沢長介 1978『宮城県加美郡宮崎町切込西山磁器工房址 切込』東北大学文学部考古学研究会 考古学資料集 別冊1
: 芹澤長介 1997「北国の焼き物4 切込焼(仙台)」『古美術 緑青 NO.23』,マリア書房
: 東北大学埋蔵文化財調査室 2017『仙台城跡二の丸第18地点』東北大学埋蔵文化財調査室調査報告6
: 東北陶磁文化館 1987『東北の近世陶磁』
: 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』,株式会社河出書房新社
: 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』,歴史春秋出版株式会社
: 宮城県文化財保護協会 1990『切込窯跡 近世磁器窯跡の調査』宮崎町文化財調査報告書第3集
: 宮城正俊 1982『新説 切込焼』,株式会社宝文社
: 料治熊太 1973『そば猪口』,河出書房新社
: 山下啓之 2010『福岡藩磁器御用窯跡Ⅰ』須恵町文化財調査報告書第10集
: 山野英雄 2012『切込焼 -幻の美を求めて-』,無明舎出版
: 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』,FCT企業
管理者 : Masa