2020年3月22日日曜日

福島県の焼き物5「福良焼2」

前回、福島県の焼き物4「長沼焼・勢至堂焼・福良焼」で、福良焼について要約で掲載していますが、今回は詳しく歴史から追っていきます。

福良焼の歴史

まずは、福良焼に大きく関わる会津本郷焼の創始者である佐藤伊兵衛氏について。
同氏は安永6年(1777)、会津で染付茶碗を生産します。
しかし、肥前系の磁器の出来には遠く及ばないので、藩の援助のもと、寛政9年(1797)に36歳で焼き物の産地に技術の視察を兼ねた旅に出ました。
江戸、志戸呂焼、瀬戸焼、織部焼、常滑焼、美濃焼、信楽焼、京焼などを経て肥前有田に入ります。
有田では技術の流出に厳しい取り締まりをしていたので、万全の態勢で潜入したようです。
ここで、土(陶土)ではなく白石(陶石)を砕き、粉にして磁器を焼いていることなどを知ります。
さらに、長崎、小倉、下関、萩焼、備前焼などを見て回り、大阪、京都楽焼で修業し、江戸を経て、会津に寛政10年(1798)帰国(帰藩)しました。

当時は自分で歩くか駕籠(かご)か馬、もしくは船の移動手段しか無いですから、かなりハードスケジュールだったと思います。

さて、寛政11年(1799)、佐藤伊兵衛氏は白磁を焼き始め、翌年、肥前磁器風の丸窯を築いて技術を取り入れ、白磁焼成に成功しています。

福良焼の直接的な出来事として文化元年(1804)、陸奥国会津藩旧安積郡福良村、現在の郡山市湖南町福良において、福良焼の創始者の長谷川兵夫(兵部)氏が誕生します。
文政4年(1821)には長谷川兵夫氏の子、福良焼二代目になる酒造氏が誕生。後の清吾氏です。

文政11年(1828)、長谷川兵夫氏が湖南町福良の鶴山で(陶器を)焼き始め、天保元年(1830)には、佐藤伊兵衛氏に弟子入りします。天保5年(1834)には、造酒氏も弟子入りします。

天保10年(1839)、会津藩主松平容保の用命で新生瀬戸焼(白磁の染付)の生産が許可されたことから、磁器の福良焼の生産が始まります。それを作るための磁土は、旧岩瀬郡長沼村勢至堂、現在の須賀川市勢至堂から採取されています。勢至堂焼と一緒です。

天保11年(1840)、長谷川父子は常陸国松岡藩(現在の茨城県高萩市)と大堀相馬焼の福島県相馬に修行に出ます。
生産が許可されてからも修業に出ていることから、なかなか上手く焼けなかったのか、それとも技術向上のためでしょうか。
しかし、相馬焼は陶器だけなので、そこから何か得る技術があったのだと思われます。青磁色の独特な貫入(ヒビ)の様子ですかね。

弘化元年(1844)に父子は地元福良村に戻りました。
その後、三代村の唐沢で良質の陶土(磁土)を発見して、それまでの勢至堂のものと調合した結果、ついに白磁生産を成功させます。そして、造酒氏は清吾と改名します。

弘化3年(1846)、勢至堂焼の創始者となる二瓶豊作氏が同じ福良村にて誕生します。
勢至堂焼についてはこちらから。

安政6年(1859)には福良焼の窯が5基築かれ、瀬戸屋(稼業として焼き物に関わる家)は13戸にもなっています。

福良焼のことではないですが、文久3年(1863)会津藩士である絵師の斎藤伊織が会津本郷焼の絵付を指導して、画風を一変させているとのことです。


どのように一変させたのか気になります。これは、当時の会津本郷焼の鑑定に重要なことですので、後日調べてみましょう。
福良焼にも影響があったのではないでしょうか。

そして幕末

慶応4年・明治元年(1868)には福良焼4代目となる長谷川久吾氏が誕生しています。

戊辰戦争

慶応4年・明治元年(1868)~ 明治2年(1869)に新政府軍(明治政府)と旧徳川幕府勢・奥羽越列藩同盟の戦いにより会津は戦場となりましたが、福良は戦火に遇わなかったようです。しかし、士分(武士の身分)なので会津藩兵として戦いに出て、窯業は一時休止となります。

戊辰戦争の後、明治の初めには、県から生産年賦金(分割して毎年の支払い)を受けて16の民間の窯が復興しました。

明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、長沼焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。

その後、長沼焼、勢至堂焼と同様ですがこちらは早く、大正5年(1916)に三代目の栄次氏が亡くなった後、廃窯となっています。





「福良窯名陶集」からみる作風
染付
上野寿郎著の「福良窯」掲載のものから、まず染付の作風をみると、「牡丹獅子文皿」(径28.5cm)、「雲龍文皿」(径25.5cm)などは、現在において伊万里焼(古伊万里)として流通しているのは間違いないという立派な絵付けです。

「香立て」は、蚕養焼で取り上げた唐草文蕎麦猪口の絵付けで、描かれた葉はデフォルメというか一筆書きで元の葉の形状を失っていて蝶のようにも見えるものです。この文様が蚕養焼の特徴の一つと考えられていますが、ここに福良焼でも出てきました。切込焼でも同様に存在します。こちらはこれよりも絵付が上手ですが。
画像は「蔦唐草文すず徳利」です。蚕養焼かもしれません。器形が下蕪形(下膨れ)なので、明治前期の作です。

福良焼?会津本郷焼系蔦唐草文すず徳利
福良焼?会津本郷焼系 蔦唐草文すず徳利


明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に福良焼でも使われ、絵付けは色鮮やかなヨーロッパの青色となりました。
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)

52頁掲載の「山水文隅切皿 二瓶嘉右ヱ門家蔵」(径29cm、高さ4cm)は、こちらの画像のものとほぼ同じ絵付です。
ベロ藍は鮮やかというまで達しない、落ち着いた色合いです。






福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
本に裏面の掲載が無いので比較が出来ないのですが、こちらには少し稚拙な「玩」の文字があります。この文字は、渡来系陶工の銘款を表しているとの記載がある書物があり、伊万里焼に書かれているようです。このことから、「玩」を書くのは伊万里焼の模倣であって、特に意味をなさないのではないかと思っています。長沼焼のページでも紹介しています。

福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
福良焼? 染付山水文隅切皿(角皿)の裏「玩」銘
伊万里焼(古伊万里)とされている角皿で特に「玩」を多く見かけます。そして絵付けとベロ藍の発色が上記のものとほとんど似ていますので、以下の鉢も含めて産地については今後の課題とします。

福良焼? 染付日回文鉢
福良焼? 染付日回文鉢
64頁掲載の「日回文鉢 西田家蔵」(径24cm、高さ4cm)は、これも伊万里焼(古伊万里)としてかなり流通しているもので、この画像のものとほぼ同じ絵付けです。ベロ藍の発色がとても鮮やかです。

福良焼? 染付日回文鉢の側面
福良焼? 染付日回文鉢の側面
ちなみに、この染付の日回文鉢にある外面文様と内面に型紙摺絵の牡丹文を使った鉢が、現代の美濃焼で福良焼の写しとして復刻されています。






印判(型紙摺絵・銅板転写)

型紙摺絵では会津本郷系独特な型紙のものもありますが、肥前系のものとよく似ています。
徳利は独特なものがほとんどで、口造りも独特です。

69頁掲載の「摺絵蛸唐草文すず徳利」(径15cm、高さ25cm)は、型紙摺絵と器形がこの画像のものとほぼ同一です。器形は掲載のほうが肩の張りがややあるかもしれませんが。

福良焼?会津本郷焼系 摺絵蛸唐草文すず徳利
福良焼?会津本郷焼系 摺絵蛸唐草文すず徳利
まだ掲載していない磁器製品がありますので、今後、このページに画像を追加していきます。


2019年11月に福良焼を見てきました
大安場史跡公園
大安場古墳がある大安場史跡公園
郡山市の大安場史跡公園ガイダンス施設で開催されていた、第2回企画展「湖南町の歴史」で、福良焼が展示されているとのことなので見に行ってきました。
実物を見ると、だいたい思っていたとおりの絵付け・印判模様と色調でした。
蕎麦猪口は底部が見られなかったのが残念でしたけど。
福良焼?会津本郷系 蕎麦猪口
福良焼?会津本郷系 蕎麦猪口


この蕎麦猪口は蚕養(こがい)焼のページで蚕養焼のものと紹介していますが、展示されていた蕎麦猪口はこの文様構成でした。

他の遺物もじっくりと見た感想として、実物が間近に見られるなど展示方法がとても工夫されていて素晴らしかったです。




参考・引用文献
 : 上野寿郎 1983『福良窯』, 歴史春秋社
 : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
 : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
 : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
 : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
 : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業
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