2019年3月10日日曜日

耕うん機F210のオイル交換 2019

F210耕うん機(小型管理機)のオイル交換

農繁期突入ですが、耕うん機のエンジンオイルと変速機(トランスミッション・ギア・ギヤ)オイルの交換をまだやっていませんでした。
なんと前回の交換は約1年前!
農閑期の厳冬期に交換作業を済ませておくつもりだったのですが、週末ファーマーの農作業の時間配分がうまくいかなくて延び延びに。
今日は早めに農作業を開始出来たので、やっとオイル交換となりました。
風が弱いので、乾燥した土がオイル交換時に飛んで来ないので交換日和です。




オイル交換には白いカバーが邪魔になるので、鉄製のフロントガードごと(+)アプセットボルト4本を抜いて取り外さなければならないのです。しかし、久しぶりの作業で忘れていて白いカバーだけ先に外してしまい、またそれを付け直すという手間が発生。

さて、オイル交換。
エンジンオイルの排油ボルトと給油キャップを外して、ついでに変速機オイルの給油キャップも外しておきます。
使用する工具はラチェット式のプラグレンチがお勧めです。エンジンオイルの排油ボルト外しには19mmを使用しました。
廃油ボックスにプラスチック製チリトリ経由で流して排油。エンジンオイルはだいぶ汚れていて黒色に近い!

次に変速機オイル。変速機オイルの検油ボルト外しには「3M-10」を使用しました。
なお、ミッションオイルを完全に交換するのであれば、オイルパンを外して作業を行います。
排油が終わったら、新しいオイルを注入していきます。
エンジンオイルは10W-30のエンジンオイルを使用。ホンダ製の4サイクルエンジンオイルがあるのでそれをいつも使用しています。
SJグレードの汎用機用の「U 汎用 ULTRA」か、SLグレードの「ULTRA G1」です。
今回は「ULTRA G1」。
グレードはG1のほうが良いのですが、価格はG1のほうが約半額です。GIはホームセンターなどで在庫があるので手軽に購入出来ますが、汎用機用のほうは見つかりませんので、インターネット通販で購入しました。汎用機用のほうは現行?の「こまめ」の取扱説明書に推奨オイルとして掲載されていたので購入したのですが、「API分類SE級以上のSAE10W-30オイルをご利用ください」ともありますので、G1でも良いと思ってこれも使っています。

オイルが抜けたら排油ボルトを締めつけますが、シーリングワッシャーは交換しないで古いまま。新しい物を用意出来ませんでした。

新しいオイルはオイルジョッキに入れて注入。レベルゲージで量を確認しながら、約0.30リットル(規定の量)入りました。






次は変速機オイル。
オイルは4サイクルエンジンオイル「ULTRA 汎用 寒冷地オイルSE 5W-30またはAPI分類SE級相当のSAE 5W-30」ですので、前者を使用。こちらもホームセンターで見かけないので、インターネット通販で購入しています。寒冷地オイルなので、使用温度が低めに設定されているのですが、取扱説明書にあるのでそうしています。
これを注入する量は、検油ボルトを外した排出穴からオイルがにじみ出るまでなので、にじみ出たら検油ボルトを締めます。0.90リットル(規定の量)入りますので、オイル缶1本分近く入ります。こちらもシーリングワッシャーの交換は出来ず。

これでオイル交換は完了!

その様子はYouTubeで公開しています。





リフレッシュした耕うん機で、春の植え付け前の土作り。
冬野菜の片付けをして、苦土石灰・米ヌカ、場所によっては消石灰・腐葉土を撒いてから耕うんしました。
耕うん機は、はっきり分かるほど排気臭が軽減していました。








管理者 : Masa
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2019年3月2日土曜日

ニンニクの追肥と冬の雑草抜き

仕事中に両腕強打、その後に重いものを無理して持ったため右腕を痛めてから約1か月が経過しましたが、しびれと軽い痛みがなかなか無くならず。
イモ類の掘り起こしなどのハードな農作業は出来ないですが、冬の雑草抜きなどの軽作業なら出来るので、週末ファーマーの農作業は続けています。




冬の雑草抜き

当地では、冬でも丈が低くて地を這うような雑草が繁茂しています。
どんな雑草かというと、多い順に、ホトケノザ(仏の座)、オランダミミナグサ(和蘭耳菜草)、オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)、カタバミ(酢漿草)、タネツケバナ(種漬花)、スズメノカタビラ(雀の帷子)、セイヨウタンポポ(西洋蒲公英)が主です。

特に、不織布でトンネル仕立てにすると、内部が暖かいのでホトケノザが大きく育ってしまい、小さな野菜の株が隠れてしまいます。

スナップエンドウが育ってきたので、トンネル仕立てを終わりにするついでに雑草抜きをしました。
その様子は、YouTubeに短くアップしてありますので、以下のリンクからどうぞご覧ください。




ニンニクの追肥 2019年2月
無農薬・無化学肥料で育てられた熊本県阿蘇山の種ニンニクを植え付けてから、約5か月が経ちました。
昨年年末は少雨に負けず、ニンニクの育ちが良かったので追肥をしていません。肥料過多になって悪影響が出るかもしれないと判断したのです。
そして、今回最初で最後の追肥をしました。
追肥は粉状ケイフンだけです。
株間に適量をポトッ、ポトッ、と置いていきます。
本当は、粒状ケイフンのほうが肥料の持続性があるので良いのですが、購入しに行ったホームセンターで販売していなかったのです。数キロ先にある別会社のホームセンターに行けばあるのは分かっているのですが、そこまでの行動力がありませんでした。





ケイフンの追肥をした翌日には降雨の予報が出ていたので、肥料が土にしみ込んでいくから良いな、と思っていたらなんと雨は降らず。天気予報が外れました。
その後は北西の強風が吹いたので、軽い粉状ケイフンの一部は風に飛んだことでしょう。やっぱり今後は粒状にしようかな。

その様子もYouTubeにアップしてありますので、以下のリンクからご覧ください。
そして、チャンネル登録もどうぞよろしくお願いいたします。





次回は、露地イチゴエリアの雑草抜きとケイフン追肥です。東側のエリアのイチゴ株は雑草に隠れて見えなくなっていますので。

ちなみに、イチゴの旬は今だとTVで紹介していますが、あれはハウス栽培でのことですので。露地栽培のイチゴの旬は春です。






管理者 : Masa
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2019年2月2日土曜日

福島県の焼き物4「長沼焼・勢至堂焼・福良焼」

福島県会津本郷町の「会津本郷焼」と、会津本郷焼の系統である会津若松市の「蚕養焼」についてはすでにご紹介しました。ここでは、同じ系統である須賀川市長沼の「長沼焼」、須賀川市勢至堂の「勢至堂焼」、郡山市湖南町福良の「福良焼」についてのご紹介です。
これらは個人的に好きな焼き物の最上位となっております。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。
須賀川市長沼。休館だった資料館前から。





長沼焼

福島県旧岩瀬郡長沼町、現在の須賀川市長沼に窯が築かれましたが、昭和8年(1933)頃には廃窯となっています。

江戸時代の正保4年(1647)には、美濃国から来た水野源左衛門が陶器を焼き始め、その後会津本郷に移ったとされていますが、詳しいことは分かっていません。これは「古長沼焼」としてここでの説明は省きます。
その古長沼焼の開窯から219年後の慶応2年(1866)に、庄屋の矢部富右衛門が独力で窯を築いて陶器を焼き、長沼焼が再興されます。矢部富右衛門は焼き物の技術を福良焼から習得したといわれています。
陶器を焼き始めたものの、すぐに操業資金が不足したので会津藩に助力を願い出ると、お金の代わりに米10俵を貰い受け、領地内の松の木を伐採して燃料とする許可が出ています。
しかし、時代は幕末です。やはり戊辰戦争で混乱し、窯は操業停止となりますが、明治3年(1870)には操業を再開し、磁器生産に着手しています。
長沼焼の磁器は明治時代以降ということです。
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿
写真1-1 長沼焼と考えられる手描きの角皿

 明治13年(1880)には会津本郷焼で顔料に合成呉須(ベロ藍)が使われ始めます。同様に長沼焼でも使われ、写真1-1の手描きの角皿のように絵付けは色鮮やかなヨーロッパの青色となりました。

写真1-2 高台内に「玩」銘
写真1-2 高台内に「玩」銘

この角皿は「福島のやきものと窯」の29頁に掲載されているものと内面外周の絵付が類似しているので、長沼焼であると考えています。裏面が掲載されていないので比較が出来ないのですが、こちらの角皿の高台内(写真1-2)には「玩」の文字が書かれています。この文字は、渡来系陶工の銘款を表しているとの記載がある書物があり、伊万里焼に書かれているようです。このことから、「玩」を書くのは伊万里焼の模倣であって、特に意味をなさないのではないかと思っています。
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます
写真1-3 だいぶ器形が歪んでいます

あと、気になるところは歪みです。写真1-3のようにだいぶ器形が歪んでしまっています。磁土は、いわゆる腰が弱い土だったことを物語っています。
これを裏付けるように、長沼焼の磁土は大皿の製作に向かない腰が弱い土だったので、直径40cmほどの大皿までしか焼成出来なかったと考えられています。
また、高温では皿の高台が潰れてしまうので、高台を厚くして熱に耐えられるようにし、高台内を削っていました。高台内を削るのは、焼成時に皿の底部が下がるのを防止する「蛇の目高台」の作りが代表されるように、高台内を薄くするのが焼成で失敗しない方法で、これはほぼどこの窯でも取り入れていた技法でした。
ちなみに土は後述する勢至堂産とのことです。 

須賀川市立博物館
須賀川市立博物館

長沼焼の磁器を須賀川市立博物館の企画展示で見てきました(2017.11)。「青木忠吉コレクション」も展示されていて、写真2-1と同じ微塵唐草文小皿もありとても参考になりました。

写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真2-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

写真2-1・写真3-1の型紙摺り(印判)小皿の見込みは輪状に釉薬を剥いでいます。重ね焼きで器どうしがくっ付いてしまうのを防ぐためで、長沼焼ではこの技法が多くみられます。
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿
写真3-1 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿

このやり方は「釉剥ぎ」と言われていますので、その文字のとおり釉薬を剥いで無釉にするとしている説明をほとんどの方がしています。しかし、素焼きの型紙摺絵の場合は、絵付後に釉薬を施した後、釉薬がそんなに綺麗に輪状に剥げるのでしょうか?
もっとも簡単なのは、釉薬を施す前にロウなどの水分を弾く成分をロクロにより輪状に塗布すれば、釉薬が弾かれて(付かなくて)都合が良いと思います。これなら綺麗に輪状に塗れるので、釉薬が綺麗に輪状に塗られない部分が出来上がります。
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)
写真2-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真2-1の裏)

写真2-2・写真3-2のように型紙摺絵(の顔料)がべっとり高台に付くということは、やはり釉薬を剥いでいるのではなく、釉薬を付けないようにしていると思います。
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台 に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)
写真3-2 長沼焼の型紙摺り(印判)小皿の高台
に付着した型紙摺絵(写真3-1の裏)

 さて、長沼にある須賀川市歴史民俗資料館のほうでは、型紙(磁器の文様付け・絵付の型紙摺り)の展示があるので行ってみましたが(2017.11)、「文化の日」なのにお休みでした。まさか休館日だとは、とても残念。土・日・祝日・年末年始(12月29日~1月3日)が休館日ということです。休館日を調べてから行けばよかった…。

須賀川市歴史民俗資料館
須賀川市歴史民俗資料館

 明治20年(1887)には日本鉄道が現在のJR東北本線の郡山駅まで、その後は明治32年(1899)に岩越鉄道が現在のJR磐越西線の会津若松駅まで開通させたことにより、長沼焼の販路拡大と共に瀬戸・美濃焼の安価で質が高い製品の流入が本格化します。この瀬戸・美濃焼製品の販路拡大は、東日本に存在した数少ない磁器製品の産地に大打撃を与えたと思っています。
そして競争に負けてしまった長沼焼は徐々に衰退していきました。
昭和8年(1933)頃には廃窯となってしまい、約70年の歴史に幕を閉じます。




勢至堂焼

旧岩瀬郡長沼町勢至堂、現在の須賀川市長沼勢至堂に明治29年(1896)に、福良焼の陶工である二瓶豊作(初代)氏が移住して開窯しています。
長沼焼も後述する福良焼も勢至堂産の土を使っていましたが、後年になると良い土が採取出来なくなっていったとのことです。鉄分が多く入って斑点も現れ、白さが失われていったのでしょう。肥前地方と瀬戸地方を除いてほとんどの産地で、良質な磁土が近場で手に入らなくなって、磁器の品質が落ちて廃れていく一因となりました。
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)
写真3 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)

写真3の型紙摺絵のなます皿(小皿)は胎土と釉薬からみて、終末期の勢至堂焼のものではないかと思っています。型紙摺絵の絵付柄が一般的なものとは違うのが産地同定のヒントになりそうです。
磁土は灰色が強く不純物が多く、釉薬は灰色が強いものです。今後検討していきます。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の 高台には型紙摺絵が付着しています。
写真3の裏面 勢至堂焼と考えられるなます皿(小皿)の
高台には型紙摺絵が付着しています。

勢至堂焼の窯の終わりは長沼焼と同様で、昭和9年(1934)に廃窯となっています。




福良焼

旧安積郡福良村、現在の郡山市湖南町福良で文化元年(1804)に長谷川兵夫(兵部)氏が誕生開窯(舘ノ下窯)し、天保10年(1839)から磁器を生産しています。
長谷川家二代目の清吾(酒造)氏は、会津本郷焼に弟子入りし磁器の生産技法を取得、絵付が素晴らしく名工と言われています。
染付の徳利の口作りは会津本郷焼に類似します。なお、明治時代の型紙摺絵のものも同様で、勢至堂焼も類似しています。

戊辰戦争の後、明治の初めには、県から生産年賦金(分割して毎年の支払い)を受けて16の民間の窯が復興しました。

その後、長沼焼、勢至堂焼と同様ですがこちらは早く、大正5年(1916)に三代目の栄次氏が亡くなった後、廃窯となっています。

詳しくは後日別ページにて。

なお、上記の焼き物の系統を同じくする、現在の郡山市湖南町湖南の「湖南焼」については後日追記になります。



2021.7.22追記
長沼焼と考えられる磁器の徳利などを手に入れていますので、機会を見てアップします。

参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 福島県立博物館 1997『企画展 染める-会津型の技と文化-』,
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業

管理者 : Masa
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