2016年12月11日日曜日

薩摩焼の窯場3・4

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野(よきの)系


近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。

鹿児島市内訪問時、大久保利通公の銅像。
鹿児島市内訪問時、大久保利通公の銅像。

薩摩焼の窯場3

龍門司系の窯場

龍門司系の窯場についてのお話です。

山元窯

寛文7年(1667)に現在の姶良市加治木町反土(たんど)に山元窯が開かれました。
窯跡は連房式の登り窯で、規模は長さ約14m、幅約2m。
製品は、灰白色の素地に褐釉を施釉した陶器の碗・皿等が主です。染付の磁器も出土していることから、磁器生産も試みていたことが判明しています。
重ね焼きには目積み(例:器どうしが溶着しないように耐火性の団子状の土等を挟む)の技法を用いています。
延宝4年(1676)には窯は終わりを迎えたと考えられ、龍門司に移っていきます。
なお、本格的な磁器生産に至らなかったと考えられているため、薩摩磁器系から外れているようです。

龍門司窯

享保3年(1718)頃、現在の姶良市加治木町小山田に窯が開かれたと考えられています。
窯は昭和28年(1953)まで使われていました。その連房式の登り窯が残されていまして、規模は長さ約20m、幅3.8mです。
製品は、山元窯に類似するものが焼かれていたと推測されていますが、重ね焼きには蛇の目釉剥ぎ技法がみられるのもがあります。蛇の目釉剥ぎは、器の内面を環状に釉薬が施釉されていない状態にしたものです。そこに高台付の器を重ねて焼いても、引っ付きにくい利点があります。
釉薬は、鮫肌釉・玉流し釉(黒釉にワラ灰釉を流し掛け)・三彩(銅緑釉・褐釉などを流し掛け)など多様です。また、1800年代頃から生産された器には「龍門司」銘などがみられるようです。

現在では、龍門司焼企業組合が「龍門司焼陶器祭」を開催し、龍門司焼を盛り上げています。




薩摩焼の窯場4

元立院系の窯場

元立院系の窯場についてのお話です。なお、元立院系は西餅田系とも呼ばれています。

元立院窯

寛文3年(1663)、現在の姶良市西餅田に小野元立によって窯が開かれたと伝えられていますが、窯跡本体は確認されていません。窯が廃絶したのは18世紀末頃と考えられています。その後は龍門司窯に移ったため、両窯跡の製品の区別が付きにくいものが多く、「加治木・姶良系陶器」と呼ばれています。
薩摩焼の窯場3で龍門司系の山元窯について紹介しましたが、山元窯と類似する例として以下引用です(頁数が入っていますが、このブログでは関係ありません)。

寛文八年(一六六八)銘の元立院窯の花瓶(三四頁)を見ると、器表面に轆轤目を残し、薄い褐釉を掛けている点は、同時期に操業していた山元窯の製品と共通します(三八頁)。「小野元立焼物弟子控書」(『研究』所収)によれば、山元碗右衛門は一時期元立院窯にいた可能性があり、また距離的にも近いので、両窯は密接な関係にあったと推測されます。しかしその一方、轆轤の回転方向は、山元窯が左回転主体であるのに対し、元立院窯は主に右回転と、技術系統的な違いも認められます。(渡辺芳郎 2003,p103)

お名前の「碗右衛門」さん、まさに焼き物の人ですね。

元立院窯の製品は陶器の皿や碗が主体で、灯明皿や灯明受け皿もあります。なお、染付磁器も焼かれていました。
釉薬の特徴として、灰釉と黒釉を二重掛けするものがあり、それを応用した蛇蝎(だかつ)釉はこの技法と深い関係があると考えられています。
道の駅いぶすき
南国ムード漂う「道の駅いぶすき」をドライブの途中に立ち寄り 

小松窯

元立院窯が開かれた後に、窯は姶良市船津に開かれていますが、窯跡本体は確認されていません。出土品は元立院窯で焼かれた物に類似した製品・窯道具が出土しています。

前回の薩摩焼についてはこちらから。
次回の薩摩焼についてはこちらからどうぞ。








参考文献 : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
     : 渡辺芳郎 2012「近世薩摩焼の生産と藩外流通」『江戸遺跡研究会会報 No.133』江戸遺跡研究会
管理者 : Masa
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