飯能焼
飯能焼について
飯能焼は明治20年頃に生産が一度途絶え、その飯能焼は現在の飯能焼と区別するために「古飯能焼」とも呼ばれています。また、窯の所在地から古くは「原焼」と呼ばれていました。
「新飯能焼」ともいえる現在の飯能焼は、約90年間の時を経て、埼玉県飯能市でおよそ40年前から再興し、数軒の窯元が生産しています。
「武州飯能窯」の虎澤英雄氏作の花瓶 |
写真の新飯能焼の花瓶は、「武州飯能窯」の虎澤英雄氏の作品です。飯能焼に特徴的な「イッチン描(がき)」でユリでしょうか?見事に描かれています。イッチン描については後述します。
古飯能焼 原窯跡
所在地
まずは古飯能焼の原(はら)窯跡について。
原窯跡は武蔵国高麗郡真能寺村原(現在の埼玉県飯能市八幡町)に所在します。江戸時代後期は上総国久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)の黒田氏の領地でした。
500~600坪あった窯の敷地は現在では住宅地などになっていまして、開発行為などが行われた際に飯能市教育委員会によって発掘調査が数次行われています。しかし、窯本体ではなくその周辺部に調査区が該当したため、窯の発掘には至っていません。
時期
窯が開かれた年代は、江戸時代後期の天保元年(1830)もしくは天保3年(1832)ともいわれ、はっきりと分かっていませんが、天保年間初頭(1830年代)には初代雙(双)木(なみき)清吉によって開窯されていたと考えられています。清吉は開窯にあたって、現在の滋賀県信楽から陶工の木村八右衛門と大原(双木)新平を呼び寄せています。
その後は、陶工や絵付師を現在の群馬県安中、栃木県真岡、埼玉県熊谷などから呼び寄せたりしています。
そして明治20年(1887)には閉窯と伝えられていますので、古飯能焼が生産されていたのは60年間に足りない期間でした。
窯の構造
原窯の七連房の登り窯(間口約2.5m、奥行約20m)跡は埼玉県史跡に指定されていました。「指定されていました」と過去形なのは、その後の宅地化で窯跡が破壊されてしまったので、昭和36年(1961)に史跡指定が解除されてしまっています。
生産品
生産されていたものは、陶器の土鍋・行平鍋、鉢類、徳利、合子、土瓶・急須などですが、低温度で焼成した軟質施釉陶器も焼かれていた可能性があります。
製品の手取り(製品を手に持った感覚)は、明治10年(1877)以前ではロクロ目が目立ったやや厚手で重厚(信楽風)で、それ以降は全体的に手取りが軽い(京都風)、(飯能市郷土館1994)とのことですので、そこで技法が変化しています。
胎土
古飯能焼はどんな土で焼かれていたのか?以下に直接引用します。
「陶土については、赤みを帯びた柔らかい(鉄分が多く粘着力に富む)粘土を産する赤根ヶ峠(大字苅生)の土を主要陶土に、愛宕、天覧山の耐火性のある白色粘土を混ぜたものを使用していたようである。」(飯能市郷土館1994,p9)
とあります。
その後、飯能市内三か所で採集された粘土試料が分析されていますが、その結果、古飯能焼に用いられたとは確認されませんでした。なお、三か所のうち一か所の採集場所は赤根ヶ峠です。ただし、採集地の粘土が単独で用いられずに、他の場所の粘土と混合された可能性を否定していません(飯能市郷土館2001)ので、引用(前述)したとおりだったのでしょう。
また、嘉永3年(1850)前後には原料粘土の変化があった(飯能市郷土館2008)とのことですので、陶土の改良が行われています。
胎土の色調は、主に灰色~暗灰色のものが多いです。
釉薬
古飯能焼では釉薬が緑色を帯びた褐色のものが多いのが特徴です。
釉薬は、灰釉、緑釉、飴釉、黒釉、柿釉(鉄釉でも鉄分が多い釉薬)などです。
なお、釉薬を施していない焼締もあり、主なものとして急須などがそれにあたります。
絵付
イッチン描
飯能焼の特徴といえる白い文様のイッチン描(がき)は、耐火度の強い白粘土を器表面に絵付けとして貼り付けて焼成することによって出来上がります。
イッチン描は、渋紙(和紙に柿渋を施したもの)を円錐に形作って筒状にして、その先端を小さく切って真鍮製の口金を付けた道具を使います。これをカッパ(合羽)といいます。カッパに描きやすい粘度にした白粘土を入れて、カッパから白粘土を絞り出して絵付けます。
なお、古飯能焼はほぼイッチン描での絵付けしか行っていませんので、これが特徴といえますが、イッチン描絵付製品は、益子焼や信楽焼など青森から鹿児島までの各地で用いられています。
文様は、屋号などの文字、梅、ヒョウタン、麦、若松、浜千鳥などが主なものです。なお、文様での浜千鳥(ハマチドリ)の意味は、海浜にいるチドリのことです。
鉄絵
酸化鉄を含有する絵具で文様を描きますが、古飯能焼ではごく少数です。
コバルトブルー
陶器肌にコバルトブルーで文様を描きますが、こちらも古飯能焼ではごく少数です。その他の焼き物産地でも、白化粧をしていない陶器肌にはほとんど使っていません。
古飯能焼 矢颪(やおろし)窯跡
所在地
埼玉県飯能市矢颪、入間川の右岸に位置しまして、原窯跡との距離は直線距離でおよそ1kmです。
窯は短期間の操業で、小規模であったのではないかと考えられています。
時期
窯が開かれた年代は、文献資料などが知られていないため不明です。
窯の構造
2基の窯が師岡貞雄氏によって調査報告されています(師岡貞雄1977)。
煉瓦を用いた登り窯で、2基のうち1基(二号窯跡)の規模が確認され、推定される規模は全長およそ4m、幅およそ2m、傾斜度はおよそ20~30度です。
なお、物原(焼成失敗品などを捨てた場所)が2か所発見されてもいます。
生産品
一号窯跡から出土した製品は、大甕、徳利、土瓶類、土鍋、火鉢などですが、カケラになったものが多かったようです。
二号窯跡から出土した製品は、土瓶類、香炉、徳利などで、こちらもカケラが多かったようです。
なお、二号窯跡は一号窯跡より新しいと考えられています。
こちらも原窯跡製品と同様に、厚手のものが焼かれた後に京焼風の手取りが軽いものが焼かれています。
胎土
矢颪山の土を用い、赤根ヶ峠の土は用いていないとのことです。
釉薬
釉薬は、松灰釉を用いています。
器の肌の色は、暗い緑色、半透明の黄褐色、不透明なソバ色(蕎麦に近い色?)があります。
絵付
イッチン描によって、梅、ヒョウタンなどの文様が描かれています。「緑茶」と描かれたものも出土しているとのことです。
他の窯跡
白子焼(窯)
飯能市白子の白子窯跡製品は、原窯跡の製品とは異なった特徴があるため、古飯能焼とは別に「白子焼」として扱われています。こちらは、古飯能焼と関連があると考えられる埼玉県鳩山町の「熊井焼」、東松山市の山王焼と合わせて後日報告しようと思っています。
このほかに市内にはいくつか窯跡がある、もしくはあったようですが史料が乏しく、発掘調査などが行われていないため詳細は不明です。
・飯能 「河原毛久保窯跡」※平安時代の窯跡ですが、近世以降の窯跡もあったのでしょうか?
・坂石字窯尻 「荒神窯跡(こうじんかまあと)」
・下川崎 「下川崎窯跡」
などの窯跡があります。
現在の飯能焼
飯能焼としては2軒の窯元が活動しています(五十音順)。
・破草鞋窯(はそうあいがま) 岸 道生氏
・飯能窯 虎澤英雄氏
今後、発掘調査などにより判明したことがあれば追記していきます。
参考・引用文献 : 岸 伝平 1966『埼玉県人物史』中巻「雙木清吉 飯能焼-雙木家における創業から廃業まで」, 埼玉県立文化会館
: 富元久美子 2006『飯能の遺跡(34)-飯能焼原窯跡第3~5次-』, 飯能市教育委員会
: 富元久美子 2007『飯能の遺跡(35)-飯能焼原窯跡 第6次調査-』, 飯能市教育委員会
: 飯能市文化財保護審議委員会 1962『飯能の文化財 第二集(別名飯能焼号)』
: 飯能市郷土館 1994平成6年特別展図録『幕末明治の幻陶 飯能焼』
: 飯能市郷土館 2001特別展図録『黎明のとき-飯能焼・原窯からの発信-』
: 飯能市郷土館 2008『飯能市郷土館研究紀要第4号』
: 飯能市郷土館 『飯能焼』, 郷土館常設展示解説シート 近世3
: 藤野 淳 1986『奥武蔵やきもの紀行』, 奥武蔵出版
: 前田正明 1976「武州飯能焼のもう一つの窯址」『陶説』, 社団法人日本陶磁協会
: 師岡貞雄 1977「武州飯能焼 矢颪窯跡調査報告」『陶説』, 社団法人日本陶器協会
: 師岡貞雄 1984『武州飯能焼考』, 株式会社文化新聞社印刷部
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