柿右衛門・柿右衛門様式
江戸時代の時期区分
まずは江戸時代における時期の分け方について。
ここではざっくりと、江戸幕府開府の1603年から大政奉還された翌年の1868年(慶應4年・明治元年)を三期に分け、266年間を単純に3で割った約88年間を時期分けの目安としています。したがって、1603年~1691年前後を前期、1691年前後~1779年前後を中期、それ以降幕末までを後期としました。
ほかに、江戸時代初期は文字どおり初めの時期、江戸時代末期は幕末(幕府末期)あたりの時期です。
分け方については色々あります。例えば磁器であったら様式の変化や時代背景等で。他には文化・政治状況等から時期分けをしたりしますが、ここではあくまで経年で分けていますので目安としてください。
本題の柿右衛門
なぜ「柿右衛門」が別各扱いになって存続し得たのか。
ずばり、初代柿右衛門の技巧が特別素晴らしく、代々良工が継続したからでしょう。
逆境にも強く耐え抜き、守り続けた技ですね。
柿右衛門と柿右衛門様式
「柿右衛門様式」は骨董界でよく耳にしますが、柿右衛門様式は柿右衛門の作品ということではないのです。これは様式であって、万治2年(1659)にネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の連合東インド会社(オランダ東インド会社)から注文を受けた高級磁器の生産によって確立した輸出向けの様式なのです。
ちなみに、鎖国を行っていた日本において、長崎の出島での交易を欧米諸国で唯一認められていたのが、ネーデルラント連邦共和国です。
おおよそ同じ時期に、この輸出生産の影響を受けて日本国内向けに生産されたのが、いわゆる「古九谷様式」です。古九谷様式は論争・推論多々ありでして、お話は別の機会に。だけど少しだけ。問題となっているのは、古九谷様式の産地は九谷ではなく伊万里だとの説。衆議院質問主意書で提出されてもいます。
江戸前期~中期の柿右衛門
生産当初の1650年代の製品は、明朝(現、中国)後期の景徳鎮彩絵磁器を模した模様構成で中国様式となっています。
1660年代には景徳鎮磁器の模倣から離れて、日本画的な柿右衛門様式が確立されます。そして、明朝(中国)磁器の景徳鎮に代わって、格調の高い品位のある優品が生産され、ヨーロッパ・東南アジア向けの輸出が盛期となりました。
1670年代には胎土・磁器肌が安定し、また、色絵付の技法も向上して器種が多様となっています。
器種は型打成形の人物の置物や調度品もあり、古伊万里様式とは違う器種構成があります。
元禄(1688~1704)年間では、伊万里の金色・赤色を多用した派手な金襴手様式がこの時期の主流となり、柿右衛門様式が衰退してしまっているようです。金襴手はほんときらびやかですよね。
需要の増加で、明和(1764~1771)年間には、ほとんど型打ち成形になっています。
18世紀以降、連合東インド会社との交易は、明朝景徳鎮磁器の輸出再開で低調となっていき、さらに幕府の海舶互市新例(貿易制限令)による輸出規制で打撃を受けています。
いつか、海舶互市新例での影響を詳しく調べたいと思います。
江戸後期以降
海舶互市(貿易制限令)によって輸出が振るわなくなり、柿右衛門様式の生産は日本国内向けにシフトし、生活調度品・日用食器が多く生産されました。
窯業にとどまらず、輸出をあきらめなければならない関係者にとっては新たな活路の開拓に必死だったことでしょう。新製品の製作に邁進し、そして、伊万里様式と柿右衛門様式を複合した模様の製品が多く生産されています。
しかしその結果、手工業の大量生産で起こりがちな、粒子の粗い器面や顔料の質の低下があったりしました。また、成型技術の雑さもみられ、器は厚くなってぼってりとしたものも生産されてしまいます。
柿右衛門も時勢には逆らえず、柿右衛門の特徴である濁手の製作は中断されてしまったとのことです。
鮮やかな色絵と濁手
さて、ここで柿右衛門の色絵はなぜ鮮やかなのか。
色絵は釉薬(うわぐすり・ゆうやく)を器面に塗布して、その上に絵付を行います。柿右衛門は「濁手(にごしで)」という乳白色の素地を創り出し、絵付けの発色を鮮やかなものにしました。
柿右衛門・柿右衛門様式
江戸時代の時期区分
まずは江戸時代における時期の分け方について。
ここではざっくりと、江戸幕府開府の1603年から大政奉還された翌年の1868年(慶應4年・明治元年)を三期に分け、266年間を単純に3で割った約88年間を時期分けの目安としています。したがって、1603年~1691年前後を前期、1691年前後~1779年前後を中期、それ以降幕末までを後期としました。
ほかに、江戸時代初期は文字どおり初めの時期、江戸時代末期は幕末(幕府末期)あたりの時期です。
分け方については色々あります。例えば磁器であったら様式の変化や時代背景等で。他には文化・政治状況等から時期分けをしたりしますが、ここではあくまで経年で分けていますので目安としてください。
本題の柿右衛門
なぜ「柿右衛門」が別各扱いになって存続し得たのか。
ずばり、初代柿右衛門の技巧が特別素晴らしく、代々良工が継続したからでしょう。
逆境にも強く耐え抜き、守り続けた技ですね。
柿右衛門と柿右衛門様式
「柿右衛門様式」は骨董界でよく耳にしますが、柿右衛門様式は柿右衛門の作品ということではないのです。これは様式であって、万治2年(1659)にネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の連合東インド会社(オランダ東インド会社)から注文を受けた高級磁器の生産によって確立した輸出向けの様式なのです。
ちなみに、鎖国を行っていた日本において、長崎の出島での交易を欧米諸国で唯一認められていたのが、ネーデルラント連邦共和国です。
おおよそ同じ時期に、この輸出生産の影響を受けて日本国内向けに生産されたのが、いわゆる「古九谷様式」です。古九谷様式は論争・推論多々ありでして、お話は別の機会に。だけど少しだけ。問題となっているのは、古九谷様式の産地は九谷ではなく伊万里だとの説。衆議院質問主意書で提出されてもいます。
江戸前期~中期の柿右衛門
生産当初の1650年代の製品は、明朝(現、中国)後期の景徳鎮彩絵磁器を模した模様構成で中国様式となっています。
1660年代には景徳鎮磁器の模倣から離れて、日本画的な柿右衛門様式が確立されます。そして、明朝(中国)磁器の景徳鎮に代わって、格調の高い品位のある優品が生産され、ヨーロッパ・東南アジア向けの輸出が盛期となりました。
1670年代には胎土・磁器肌が安定し、また、色絵付の技法も向上して器種が多様となっています。
器種は型打成形の人物の置物や調度品もあり、古伊万里様式とは違う器種構成があります。
元禄(1688~1704)年間では、伊万里の金色・赤色を多用した派手な金襴手様式がこの時期の主流となり、柿右衛門様式が衰退してしまっているようです。金襴手はほんときらびやかですよね。
需要の増加で、明和(1764~1771)年間には、ほとんど型打ち成形になっています。
18世紀以降、連合東インド会社との交易は、明朝景徳鎮磁器の輸出再開で低調となっていき、さらに幕府の海舶互市新例(貿易制限令)による輸出規制で打撃を受けています。
いつか、海舶互市新例での影響を詳しく調べたいと思います。
江戸後期以降
海舶互市(貿易制限令)によって輸出が振るわなくなり、柿右衛門様式の生産は日本国内向けにシフトし、生活調度品・日用食器が多く生産されました。
窯業にとどまらず、輸出をあきらめなければならない関係者にとっては新たな活路の開拓に必死だったことでしょう。新製品の製作に邁進し、そして、伊万里様式と柿右衛門様式を複合した模様の製品が多く生産されています。
しかしその結果、手工業の大量生産で起こりがちな、粒子の粗い器面や顔料の質の低下があったりしました。また、成型技術の雑さもみられ、器は厚くなってぼってりとしたものも生産されてしまいます。
柿右衛門も時勢には逆らえず、柿右衛門の特徴である濁手の製作は中断されてしまったとのことです。
鮮やかな色絵と濁手
さて、ここで柿右衛門の色絵はなぜ鮮やかなのか。
色絵は釉薬(うわぐすり・ゆうやく)を器面に塗布して、その上に絵付を行います。柿右衛門は「濁手(にごしで)」という乳白色の素地を創り出し、絵付けの発色を鮮やかなものにしました。
濁手素地の復活
海舶互市新例(貿易制限令)以降、途絶えていた濁手素地の技法を復活させるために、十二代柿右衛門(1878~1963)は十三代(1906~1982)と共に、柿右衛門家古文書によってその技法を試みました。
昭和28年(1953)に濁手の復活に成功しています。今から63年前のことなのですね。
この伝統の継続が日本の宝なのです。伝統を守り抜いていく精神。
参考文献 : 朝日新聞西部本社 1976 『柿右衛門 -日本磁器赤絵の精華 古窯発掘記念-』, 朝日新聞西部本社企画部
: 福田英雄ほか 1976 『伊万里・九谷 1976 冬』, 株式会社平凡社
: 矢部良明 1992 『日本やきもの史入門』, 株式会社新潮社
: 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
管理者 : Masa
濁手素地の復活
海舶互市新例(貿易制限令)以降、途絶えていた濁手素地の技法を復活させるために、十二代柿右衛門(1878~1963)は十三代(1906~1982)と共に、柿右衛門家古文書によってその技法を試みました。
昭和28年(1953)に濁手の復活に成功しています。今から63年前のことなのですね。
この伝統の継続が日本の宝なのです。伝統を守り抜いていく精神。
参考文献 : 朝日新聞西部本社 1976 『柿右衛門 -日本磁器赤絵の精華 古窯発掘記念-』, 朝日新聞西部本社企画部
: 福田英雄ほか 1976 『伊万里・九谷 1976 冬』, 株式会社平凡社
: 矢部良明 1992 『日本やきもの史入門』, 株式会社新潮社
: 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
管理者 : Masa