2017年2月3日金曜日

茨城県の焼き物

笠間焼 

笠間焼の始まり

お土産屋さんで購入した笠間焼の汁差し。肌はきめ細かく、ツルッとしています。
お土産屋さんで購入した笠間焼の汁差し。肌はきめ細かく、ツルッとしています。

笠間藩、常陸国茨城郡箱田村(現在の茨城県笠間市箱田)で、江戸時代中期末の安永年間(1772-1781年。1772年は11月16日に明和から安永に改元、1781年は4月2日に天明に改元。)に久野半右衛門道延が近江国甲賀郡信楽(こうかぐんしがらき。現在の滋賀県甲賀市信楽町)から陶工の長右衛門を招いて窯を開いたのが始まりです。窯は登り窯で、焼き物は陶器です。
現在、この窯は「久野陶園」(くのとうえん)として存続していて、14代目の方が作陶しています。
笠間焼という名称は明治時代初期に、宍戸焼(宍戸藩、現在の笠間市)などをまとめて、販売のために名付けられたもので、それまでは地名から箱田焼と呼ばれていました。長崎の波佐見焼などが佐賀の伊万里港から出荷されたから「伊万里焼」と呼ばれたのと少し似ていますね。

笠間焼の江戸時代

寛政年間(1789-1801年。1789年は1月25日に天明から寛政に改元、1801年は2月5日に享和に改元。)から藩主の牧野貞喜が庇護し始めました。その後、6窯を藩窯的な仕法窯と定めています。
製品は甕・壷・擂鉢・土瓶などの日用雑器で、文様が描かれることはほとんど無く、黒釉や緑釉などが流し掛けられた素朴なものだけです。



笠間焼の近代以降

幕藩体制の崩壊によって各地の藩窯が藩の庇護を失い廃れていく中で、藩窯的な仕法窯であった当地の窯は、現在の愛知県美濃地方出身の田中友三郎に引き継がれて、近代的な経営に移っていきました。田中は東京方面への売り込みに努め、笠間焼の名を広めました。
明治10年(1877)、第1回内国勧業博覧会で茶壷が一等になり、知名度がさらに広まります。
明治22年(1889)には、水戸鉄道の小山駅から水戸駅間が開業し、笠間駅が開設されたことにより、ますます生産・販売が広がりました。
その後はプラスチック製品の台頭などにより窯業は落ち込みますが、工芸(民芸)陶器を興したことによって、再び盛り上がりをみせています。
笠間焼共販センター
笠間焼共販センター
笠間焼共販センター
笠間焼共販センター

現在では、笠間市内の国道355号線を車で移動すると、郊外にも笠間焼の販売店が所々にあるのに気が付きます。ちょっと寄ってみると、お気に入りの器が見つかるかもしれませね。
笠間焼共販センター出入口と国道355号線
笠間焼共販センター出入口と国道355号線
国道355号線
国道355号線

さて、毎年ゴールデンウィークに開催される「笠間の陶炎祭(ひまつり)」は開催されるのでしょうが、本日現在まだ案内が出ていないようです。
常陸大宮方面からは国道123号バイパスが整備中です
常陸大宮方面からは国道123号バイパスが整備中です

気になる益子焼との関係

山を隔てたお隣の栃木県益子市の益子焼との関係は今度に。






参考文献 : 黒田一哉 1988『図鑑 日本やきもの巡り』, 株式会社光芸出版
             : 佐々木秀憲 2000『産地別 すぐわかる やきもの の見分け方』, 株式会社東京美術
       : 成美堂出版編集部 2004『やきものの事典』, 成美堂出版
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 真尾 栄 1996『益子・笠間やきもの紀行』, 主婦と生活社
参考H.P. : 笠間市
管理者 : Masa
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