九谷焼1
九谷焼の始まり
金沢城訪問時の遠景 |
古九谷(こくたに)と古九谷論争
九谷焼が焼かれ始めてからおよそ50年後に窯業は終わってしまいます。しかし、そのおよそ100年後には窯業が再興していますので、再興後の製品と区別するために九谷焼初期の製品のことを古い九谷焼、古九谷(こくたに)と呼んでいます。
そして古九谷論争ですが、古九谷と呼ばれている製品のうち、そのほとんどが肥前産の初期の色絵製品ではないかとの説です。また、肥前から磁器の素地と絵付けの技術を導入して、大聖寺藩で色絵の絵付けを行ったという説もあります。
なお、東京大学本郷構内の遺跡発掘調査で出土した、いわゆる古九谷様式の色絵磁器の化学分析を行ったところ、肥前産であることが判明しています。しかし、あるものは九谷古窯の素地と共通することが判明しています。また、肥前の窯跡からは、古九谷と同様の製品の破片が出土したことが知られました。
この問題はかなり難しいところがあるので、ここでは少しの事実を挙げておきます。以下、埋蔵文化財の発掘調査報告書からの引用です。
「このように大聖寺藩邸の約8割を調査したにもかかわらず、九谷産磁器はわずか5点しか検出されなかった。もちろん加賀藩邸、富山藩邸の大聖寺藩邸以外では再興九谷を除き、全く出土していない。他の江戸遺跡ではもってのほかである。山中の九谷古窯跡の規模からも大量生産は望めず、国元を中心にごく限られた分布圏を有していたにすぎないことが理解される。」(東京大学埋蔵文化財調査室2005, pp.490-491)
金沢城 |
古九谷の青手と五彩手(九谷五彩)
青手、五彩手(九谷五彩)とは、色絵の作風の違いで呼び名を変えているのです。青手は器全体に緑色・黄色・紫色と紺青色で塗り描き、素地が見られない色絵の描き方をしています。五彩手は青手で使われている4色に赤色を加えて5色になるので五彩です。こちらは器面内面の中央部に写実的なモチーフを描いています。
金沢市内 |
焼成はとういと、素焼きを行わないで本焼きをしていました。結構ざっくり感がありますね。
石川県立伝統産業工芸館では伝統工芸品の見学をしました |
次回は再興九谷についてです。こちらからどうぞ。
参考文献 : 佐々木秀憲 2000『産地別 すぐわかる やきもの の見分け方』,株式会社東京美術
: 東京大学埋蔵文化財調査室 2005『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院外来診療棟地点』東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 5
: 中田善明 1998『九谷の紋様 日本文様図集』京都書院アーツコレクション129,株式会社京都書院
: 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
: 真尾 栄 1996『九谷・越前やきもの紀行』,主婦と生活社
: 矢部良明 1992『日本やきもの史入門』,株式会社新潮社
参考H.P. : 石川県九谷焼美術館
: 公益財団法人石川県埋蔵文化財センター
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