九谷焼2
再興九谷
加賀国(かがのくに)の九谷焼が途絶えてからおよそ100年後、文化4年(1807)金沢に京都の名工である青木木米(もくべい)が招かれ、春日山窯が開かれて九谷焼が再興されます。再興九谷の幕開けです。
ちなみに加賀国の加賀藩は明治2年(1869)の版籍奉還で金沢藩になりましたが、まもなく明治4年(1871)廃藩置県で金沢県になっています。また、支藩である大聖寺藩は大聖寺県になって、その後周辺地域との合併と分割によって石川県が誕生しています。
現代の庄三風七寸皿(磁器) |
九谷庄三(くたにしょうざ)
文化13年(1816)、現在の能美(のみ)市寺井の農家に生まれ、のちに「庄三風」と呼ばれる、赤絵と金彩による精細に描写された作風を生み出しました。また、それは他の九谷焼の作風までも取り入れているものです。
吉田屋窯
文政7年(1824)豊田伝右衛門が、現在の加賀市山中温泉九谷町に築きました。焚口部分が消滅していますが、残存する長さは約14.3mで推定の全長は約16mです。なお、吉田屋窯跡は国指定史跡の九谷磁器窯跡となっていまして、同所に存在する1・2号窯跡は九谷焼の古窯で、17世紀代に築かれた連房式の登り窯です。
その後、現在の加賀市山代温泉に窯を移します。
作風は古九谷の青手の技法を取り入れ、器全面を厚く塗り込んで「吉田屋風」・「青九谷」と呼ばれています。
宮本屋窯・(飯田屋窯)
天保2年(1831)に吉田屋窯が7年という短い期間で窯を閉じた後に、宮本屋宇右衛門へと窯が引き継がれました。絵付師である飯田屋八郎右衛門の赤絵の細描で「飯田屋風」・「赤九谷」と呼ばれています。
江戸時代から近代へ
当サイトでは、近代という時代区分について、明治元年(1868)以降から昭和20年(1945)前後としています。
宮本屋窯はその後、藩窯の九谷本窯となりますが、廃藩置県により藩の庇護を失うと、明治12年(1879)に九谷陶器会社が設立され民営に戻っていきました。
近代の絵付けの下絵について
下絵は、天具帖と呼ばれる美濃紙とドウサ(礬水)引きした薄美濃紙に描かれているものが多いとのことです。ドウサ引きとは、ニカワ(膠)とミョウバン(明礬)を混合した水溶液を紙に塗布して、滲み(しみ)止めに用いることです。
そして、以下は『九谷の紋様 日本文様図集』からの引用ですが、興味深いことが書かれています。
「下絵の図案からは、一般の人が抱く九谷焼のイメージに結びつくものが少なかったからであろう。事実、『九谷の紋様』に収録された図案を見れば理解されるように、古九谷は当然として、伊万里、色鍋島、柿右衛門、薩摩、赤絵、祥瑞、安南と、あらゆる種類のものがあり、本書にはあまり収録はされなかったが、仁清、乾山の図案集もかなりあった。なかでも、伊万里・色鍋島で全体の50%を占め、古九谷はわずかに10%程度である。」(中田善明1998, p.213)※原文は縦書きのため、当サイトで漢数字は算用数字に変えています。
大聖寺伊万里
骨董での伊万里焼と混同されることが多い大聖寺伊万里の所以があります。以下、引用です。
「明治の初期において、もっともよく売れ、しかも、大量に生産されたのが伊万里・色鍋島・柿右衛門風で、本場の伊万里よりも生産量を誇り、地元では大聖寺伊万里・九谷柿右衛門と称したほどである。明治のはじめ頃には、古九谷をつくっても売れることはなかった。古九谷が図案に描かれるようになったのは主に大正期に入ってからで、古九谷が重宝され、古九谷ブームを迎えるのは昭和とともにで、明治の時代は伊万里・色鍋島のものにだけ箱がつくられ、珍重された。」(中田善明1998, p.213)
このように、例えば代表的な色鍋島の七寸皿(18世紀前半)と同一の下絵が九谷焼に存在するということですので、これが下絵どおりに焼かれていたらどのようになっていたのか。もし現存するなら見てみたいものです。
前回の九谷焼のお話はこちらからどうぞ。
前回の九谷焼のお話はこちらからどうぞ。
参考文献 : 佐々木秀憲 2000『産地別 すぐわかる やきもの の見分け方』,株式会社東京美術
: 中田善明 1998『九谷の紋様 日本文様図集』京都書院アーツコレクション129,株式会社京都書院
: 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
: 真尾 栄 1996『九谷・越前やきもの紀行』,主婦と生活社
: 矢部良明 1992『日本やきもの史入門』,株式会社新潮社
参考H.P. : 石川県九谷焼美術館
: 公益財団法人石川県埋蔵文化財センター
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