三川内焼(平戸焼)
三川内(みかわち)焼の所在地
江戸時代での名称は平戸焼。骨董界では、平戸焼の名称のほうが多く使われているようです。
現在の長崎県佐世保市三川内に所在します。江戸時代は、肥前国平戸藩でした。
三川内から周辺の主要な磁器生産地への直線距離は、佐賀県伊万里市中心部は北に約15km、有田市中心部は北東に約9km、嬉野市中心部は南東に約15km、長崎県波佐見町は東に約6kmです。江戸時代の一里は約4kmですので、波佐見焼の産地までは約一里半。近いですね。
磁器生産へ
三川内でも他の産地と同様に陶器生産から始まっています。そして、有田地方から遅れること約30年、寛永17年(1640)年前後には磁器生産に移行していきます。
窯は藩窯(御用窯:藩直営の窯)と民窯(民間の窯)があり、藩窯では下々が使用する磁器ではなく、献上品等の高級品が焼かれていました。独占品としては唐子(唐人風の子供)絵付が有名です。民窯は日用食器等が生産されていました。日用食器等の雑器は、周辺主要磁器生産地では先行して盛んに生産していますね。それとの兼ね合いはどうだったのでしょうか?
輸出増加
明朝(現、中国)末期の混乱からの磁器輸出停滞の影響によって、三川内焼でもそれに代わり輸出向けの磁器が盛んに生産されていきます。焼かれたものは波佐見焼と同様な日用食器でした。
輸出の終わり
明朝から清朝への移行が終わり、政権が安定してくると輸出が再開され、日本の輸出が振るわなくなりました。
そうして、国内向けへの生産に戻りますが、やはり価格が低い日用食器の生産が主となりました。
くらわんか手
ここで、波佐見焼の代表的な「くらわんか」が出てきます。
三川内焼でも「くらわんか手」が生産されました。ちなみに「手」の意味するところは「その手の物」の手で「種類」です。
陶胎染付(胎土は陶土なのに染付)も焼かれていました。陶器だから器の色が白くなく褐色がかるため、白化粧もされていたとのことです。
志田焼で磁器に白化粧をするのとは違いますのでご注意を。こちらは元々が磁器ですので。
陶胎染付については、別に機会に詳しく述べたいと思います。
江戸時代の終わり
文化元年(1804)には尾張国(現在の瀬戸市)の加藤民吉が三川内を訪れ、その後、瀬戸の磁祖(磁器の開祖)になります。現代において磁器は「瀬戸物」と呼ばれたりしています。これが意味するところは?瀬戸の磁器生産開始については今度に。
民窯でも藩窯と同様な唐子の絵付などの製品を焼いていきます。
幕末期には輸出向け製品も生産されて、開国、明治維新での激動に入ります。
明治時代以降
藩窯が解散し民窯に移り、赤絵のコーヒー碗・ソーサー等の輸出用食器等が生産されていきます。輸出は昭和30年(1955)頃まで続きました。
太平洋戦争中の昭和18年(1943)には、長崎県陶磁器工業統制組合が設立され、三川内支所となりました。
戦後に統制組合は解散し、長崎県三川内陶磁器工業組合になります。
平成10年(1998)には、開窯400年祭が開催され、現在、16の窯元が伝統を受け継いで生産しています。
佐世保市へ行ったのに、時間切れで三川内に行かれませんでした。次回はぜひ。
参考H.P. : 長崎県窯業技術センター
参考H.P. : 長崎県窯業技術センター
管理者 : Masa