2016年11月1日火曜日

志田焼

伊万里 志田窯・志田焼

志田窯の所在地

現在の佐賀県嬉野市に所在します。嬉野市は平成18年(2006年)に 藤津郡塩田町・嬉野町が合併して誕生した市です。佐賀県有田市中心部から南東に約17km、伊万里市中心部から南東に約21km、波佐見市中心部から南東に約16kmに位置し、有明海が東にひろがります。
有明海に近いので製品の海送に適しています。この有明海が後述する私のちょっとした疑問の原点です。
江戸時代は肥前国佐賀(鍋島)藩でした。佐賀藩の支藩は小城藩、鹿島藩、蓮池藩の三藩がありまして、窯は佐賀藩と蓮池藩に築かれました。
窯は現在の国道498号線及び旧道の長崎街道を挟んで東西に存在し、佐賀藩領内に東山、蓮池藩領内に西山とエリアが分かれていました。長崎街道には宿場町の嬉野宿、塩田宿がありましたので、長崎という貿易の特異性からたいそう賑わったことでしょう。
私が塩田宿を訪れた時には、宿場町の雰囲気が感じられる町並みに整備されていて、往時をしのびながら歩いてみました。お土産には有名な嬉野茶がありますね。

志田焼・伊万里志田窯

さて、ここでまた焼き物の名称についての疑問が。
骨董の世界では「伊万里 志田皿」「伊万里 志田窯」はよく目にしますが、「志田焼」の表記のほうは少ないと思います。
現在の焼き物としては「志田焼」となっていますが。

名称に伊万里が付くことについて

志田窯製品は、有明海に近い川の港である塩田津(有明海の干満差大を利用した塩田川の水上交通拠点)から船によって運ばれています。伊万里津(伊万里港)ではないのですね。伊万里津は外海に向かって開けています。塩田津からは有明海を南下して島原湾を抜け、外海を目指したのでしょう。
あれ?伊万里津から積み出しではないのに、「伊万里 志田皿」?「伊万里」を付けなくて良いのでは。作風をだいぶ異にしていると思いますし。
志田焼が、安芸国(あきのくに、別称は芸州)の江波(えば)焼であると誤認されていたそう遠くない時代には、もちろん「伊万里」は付かないわけであって。
今度、深く探ってみましょう。



志田窯製品

江戸時代末期(幕末)の盛期では、肥前磁器における志田窯染付皿の占める割合は半数近くであったというから驚きです。
志田窯製品はなんといっても、江戸時代後期・末期(幕末)の染付絵皿に代表されます。染付の絵付が絵画なのです。皿立てで皿を飾ると、まるで絵を飾っているようです。
山水が描かれているものが多い中、個人的には富士山と日の出、鷺の絵が好きですね。
皿内面の縁には染付で波状の帯状文を巡らしたり、更にそれが二重であったりします。あとは、氷裂(ひょうれつ・ひわれ)文を地文(じもん:地の文様)で多用することです。
志田焼の皿の氷裂文
志田焼の皿 氷裂文

白化粧

これが大きな特徴です。白化粧はエンゴベーとも呼ばれます。大部分の皿の内面に白化粧が施されています。
白化粧(エンゴベー)とは、鉄分の少ない陶土を釉薬状にして皿の内面に掛け、見た目を白くしたことです。素地に鉄分が多いと褐色の濁りが入ってしまうのですよね。その色を消して白くして見栄えを良くするために内面だけに掛けたと。外面の縁をみると、流れ出たエンゴベーが帯状や線状になっているのが見受けられます。
志田焼の皿のエンゴベー
志田焼の皿外面 エンゴベー

明治時代以降

明治時代になると更に窯業が発展していきます。
「印判手」の皿は志田焼が多い感じがします。だいたい「伊万里」となっているようですが。これも検証していきたいと思っています。
そして現在は、志田焼体験が近代化産業遺産である「志田焼の里博物館」で出来ますが、窯業としての産業は無くなっています。







参考文献 : 小木一良・横粂 均・青木克己 1994 『伊万里 志田窯の染付皿-江戸後・末期の作風をみる-』, 株式会社里文出版
管理者 : Masa
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